第三百十六話 虎太郎峠
灰色の空の下、冬木立だけが勢いを得て真っ直ぐに伸びている。
妙心寺への山道を、一人の男が上ってきた。
男は寒そうに背を丸め、両手には何やらたくさんの荷物を下げている。
恵心に取次ぎを頼むと、出てきた和尚は声を上げた。
「おおこれは、仙吉さん」
龍神村の村長は、人のよい笑顔を見せると、ぴょこりと頭を下げた。
そうして僧坊に上がり、火鉢に手をかざすと、「寒うなりましたなぁ」と、のんびり言う。
「あの子はどうです。本当に和尚には、迷惑をかけてしもうて」
和尚はそれを打ち消すように両手を振ると、
「とんでもない。珍念は真面目でいい子ですぞ。今も自分から水汲みに行っております」
「ほほお、珍念と名づけられましたか。よい名を……」
村長も嬉しそうである。
「それで、しゃべれるようになりましたか」
それそれ、そのことじゃと手を叩くと、和尚はうきうきと言った。
「もうすっかり普通の子と変わりませぬ。村の子供たちとも仲良くなりましてな」
村長は珍念を引き取ってくれた礼が遅くなったと言って、持参した土産――それらは冬の湖で獲れた魚や貝、立派な蟹であった――をどっさり置くと、腕を組みしみじみと目を閉じて言ったことである。
「あの子の命を救ったのは、虎太郎という若者でしての。和尚は覚えておいでかのう? 悪たれわらしの虎太郎を」
和尚はいつか、高香を訪ねてやってきて、なぜか号泣しながら帰っていった虎太郎を思い出した。
たしかその虎太郎に、紫野と高香は襲われたのだった。
「虎太郎は、五年前、いきなりわしら村の衆に向かって頭を下げるとそれまでの悪行を詫び、これからは村を守り、村人のために生きたいと言いおった。初めは信じられなかったわしらだったが、虎太郎はその日から峠を守るようになったんじゃ。子分のコウタとゲンジを引き連れての」
村長の話に、和尚は今やっと、ことが繋がった気がした。
ではあの時、高香は虎太郎を悔い改めさせたのだ。
「いとこの竜太郎だけはそれに反発し、相変わらず悪さをしておるが……」
そこで村長は残念そうに首を振る。
「虎太郎は、珍念を守って落武者の槍に刺され、落命したのですじゃ」
「おお」と和尚は大声を上げた。
――何ということであろう。何と哀れな。
「わしらは虎太郎をその峠に埋め、碑を立てましての」
村長はポツリとつぶやくように言い、
「以来、皆その峠を、『虎太郎峠』と呼んでおります――その名は、村の誇りですじゃ」
そうして上げた瞳の輝きには、言い知れぬ感慨がたゆたっていた。
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