第三話 面影
「よしよし、いい湯加減だわい」
作造はたらいに張った湯を軽くかき混ぜ、顔を上げた。
そこには和尚に手を引かれたしのが立っていて、興味深そうにたらいを見つめている。
和尚が膝をついて、しのの着物に手をかけた。
「さあ、作造に湯に入れてもらいなさい。温まったらぐっすりと眠れるぞ」
「うん」
しのは両腕を開いて和尚にすっかり任せている。
「ほお、しのは男の子か」
和尚はにっこりと微笑んだ。しのの、照れくさそうに指を噛むしぐさが愛らしい。
「ささ、お入り」
作造が手を伸ばし、しのを抱き上げ湯に入れた。
「作造、それじゃあ頼んだぞ。終わったらわしの部屋へ連れてきておくれ。しばらくは一緒に寝ることにしよう。ひとりで怖がるといけない」
「へぇ」
しのは最初硬直していたが、次第に湯に慣れてくると笑い声を上げ、湯を両手で跳ね上げて遊ぶようになった。
桜色に染まった肌も、艶々と子供らしい。
「ふにゃふにゃじゃ。何やら洗いにくいのう」
そう言う作造も上機嫌であった。
作造は一度、妻と子を持った経験がある。
こうして幼子の体を洗っていると、幸せだった頃がつかの間甦る気がした。
しのが嫌がらないようにそっと頭を押さえ、湯をゆっくりと掛け流す。
それでもしのは、思い切り肩をすくめた。
「もうちょっとじゃ。偉いのう、しのはいくつじゃ?」
しのの右手の指が三本立つ。
「ほう、そうか。しのは三つか。そうか」
そして思わずつぶやいた。
「つたや、作太郎や……」
今から二十年前、作造はここよりずっと東の村で、両親と共に百姓をして細々と暮らしていた。
二十歳そこそこの作造には、同じ村から娶ったつたという妻がいた。
つたは作造と同じく器量よしではなかったが、働き者であった。
やがて二人の間には息子が生まれ、その子は作造の一文字を取って『作太郎』と名をつけられた。
「作太郎はええ子じゃ、強い子じゃ。大きゅうなるぞ。今にお父を超える子になるぞ」
作造の父親はそう言って作太郎を溺愛し、自らの器がそう大きくないと感じていた作造にはこの父の言葉が多少の棘ともなり得たが、しかし作造とて、息子作太郎は目に入れても痛くないほど愛しい存在には違いなかった。
つたは痘痕だらけの顔をほころばせて作太郎に乳をやる。一日の終わりにその様子を見るのが、作造は大好きであった。
横から赤子の顔を覗き込み、柔らかな頬を指でつつく。
作太郎が小さな手で自分の指を強く掴んでくる感触が、作造にはたまらなく幸福であった。
「わしにも抱かせぇ」
授乳が終わると、そう言ってつたから作太郎を取り上げる。
「ふにゃふにゃじゃ。作太郎、おまえはほんに小さいのう」
作太郎の「きゃっきゃっ」と笑う声が家中に響き、家族は平和な時を過ごしていた。
ところが作太郎が四歳になった時、村に流行り病が発生した。
それはあっという間に広がり、作造の父、母、そして作太郎の命までを奪ってしまったのだった。
つたは嘆き悲しみ、ある日裏の林で首を吊って死んだ。
作造はひとり取り残された。
つたと同じように首を括って死のうとしたが、途中で縄が切れて死ねなかった。
それで今度は水に入って溺れ死のうとしたが、ちょうどその時、洗濯をしに池に来ていた女の子供が溺れかけ、子供を救った作造は女から感謝されて、死ぬに死ねなくなった。
そしてついに作造は、高い崖から飛び降りて死のうと決めた。
両手を合わせ固く目を瞑り、意を決して飛び降りたのだが、なぜか生い茂った木の上に落ちてしまい、またも命を永らえた。
木の葉に包まれながら、作造は泣いた。
死ねなかった悔しさと、そうして生きている喜びに、泣いた。
つたの顔が、作太郎の面影が心に甦り、作造は「生きよう」と思った。
(わしは死んではならぬ、死んではならぬのじゃ……)
崖から這い上がった時、作造はもう振り返らなかった。
そうして歩き始めると、そのまま村を出て行った。
その時から作造はこの妙心寺にいる。
最初はつたや作太郎を弔う気持ちでふらりとこの寺へ来たのだったが、身ひとつで訪れた作造には読んでもらった経の代価となるようなものがなかったのである。
この寺の住職妙心和尚は無論そんなものは一切要求しなかったのだが、あまりにも手厚く弔ってくれたことに深く感動した作造は、この寺で働くことを希望した。
「しのや。おまえも和尚様に救っていただいたか。よかったの」
何もわからず、しのは明るい笑顔を作造に向けた。
作造は手巾でしのの体を拭くと単の着物を着せ、頬を指でちょんとつついた。
「そら、和尚様のところへ行こうな。よく寝て大きくなるんだぞ」
濡れてぺったりとした黒髪の小さな頭をぷるっと振るわせ、しのは言った。
「なる」
その夜作造は、久しぶりにつたと作太郎が笑っている夢を見た。