第二百九十七話 春のこだま
その年の春を、紫野はどれほど待ち望んだことだろう。
雪が溶け菜の花が開く頃、紫野は毎日のように馬で村の見張り台まで駆けていって、午後の半日をその高いところで過ごす。
もちろん、高香の訪れを待っているのだ。
最近では体の変化もなく落ちついているのであったが、不思議と寂しさだけは募る。
まだ誰かが胸の中に居座っているのか、それともそれは紫野自身の寂しさなのか、時々心の一部を切り取られるような喪失感が起きる。
苛まれるというほどのことではないが、空しさに苦しくなることはたびたびであった。
だがこんなことは、高香に会えれば治まるに違いない――
紫野はそう確信し、来る日も来る日も見張り台の上で待ち続けたのである。
それでも警邏には行かざるを得ない。
疾風と数馬、紫野の関係も修復され、今は普通に戻っている。
差し障りなく仕事をすることはできたのだが、警邏の間中、紫野は、(もしかしたら今頃、高香が村へ着いたかも知れない) とか、(きっと今頃はミョウジと碁を打っているぞ) などと考え、帰路はひとり慌しくハナカゲを駆った。
そんなふうにして五月も半ばにはなったものの高香は現れず、相変わらず彼の来訪を待ちわびる紫野の日々は続いていた。
今日も見張り台の上から思う。
(心配ない、ずっと以前も遅くなったことがある。高香は絶対来る。だって、俺だけじゃない、ミョウジも、村の人たちも、みんなが待っているんだから)
ずっと遠くの空に一条の雲がたなびき、初夏の風を運んでくる。
萌え出した若葉のにおいを、紫野は腹いっぱいに吸い込むと、「おーい」と叫んだ。
するとその声は丘にはね返り、「おーい」と幾重にもこだまさせた。