第二百九十六話 とぐろを巻く蛇
聖羅の家からの帰り、紫野がぽつりと言った。
「今日は楽しかった」
カゼキリをハナカゲの横に並べてゆっくりと行きながら、疾風はちらりと紫野の方を見る。
「そうか、よかったな」
「やっぱり、二人が一番だ」
その笑顔を見、疾風は思い切って言うことにした。
「紫野、何か悩み事があるんじゃないのか。俺でよければいつでも聞くぞ」
だが紫野は黙ったまましばらくハナカゲに揺られている。それからはっきりと言った。
「うん……でも、もうなくなった。ありがとう、疾風」
夕日が背中で沈んでゆく。
疾風と別れた後、雪の積もる寺への山道をハナカゲと行きながら、紫野は考えるとはなしに考えていた。
――体が女に変わってしまうこと。
――数馬に抱き締められたこと。
――母に拒絶されたこと。
高香、疾風、聖羅、雪、ミョウジ、親父さん……
ぐるぐると、紫野の頭の中でそれらが回る。
出口は見つからない。
大好きな疾風と聖羅に心配はかけたくない。
口にも出したくない。
(明るいことを考えよう。疾風と聖羅のように。忘れてしまうんだ。そして高香がやって来たら、すべて話そう。すべて聞いてもらおう。それまでは……忘れるんだ。たいしたことじゃない……)
振り向いて白い息を吐く。
もう夕日は丘の向こうに沈んでしまったようだった。
雪を被った林立した木々も、薄暗い中に沈もうとしている。
「さあ、ハナカゲ。もう少しだ」
闇に追われるように、紫野は馬の頭を戻し、また道を進み始めた。
迷いが消えたわけではない。
結局紫野は、とぐろを巻く蛇を心の中に置きざりにしてしまったのである。