第二百八十九話 重なる手(一)
日影村から帰って以来、紫野は一度も村に姿を見せず、疾風も聖羅もあえて寺を訪ねようとはしなかった。
ばかりか疾風にしては珍しく、村へ下りて行くことさえしない。
もっともこの時期警固衆の仕事も雪掻きくらいであったから、それは別段取り立てて言うほどのことでもないにしても、井蔵はさすがに(何かあるな)と思って声をかけた。
「おい、疾風。おめぇ、寺へも村へも行かねぇのか。どうした」
しかし疾風は笑顔を見せ、
「別に寺に用事はないし、村には聖羅がいる。何かあれば向こうから来るだろう」
と、あっさり言うのみである。
井蔵は首をかしげる代わりに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
そして例年より早く降り出した雪があっという間に山道を埋めてしまって以後も、男二人黙々と、冬の生活を営んでいた。
そんなある日、紫野が突然訪ねてきたのである。
「やあ、疾風。親父さん」
白い雪道に立つその姿に、疾風はさすがに驚かされた。
思わずしていた一切の動作が停止する。
「紫野……」
同じく紫野に気づいた井蔵は手を挙げ、
「よう、紫野か。こっち、入れ」
久しぶりの客人に喜びを隠さず迎え入れた。
「うん」
そう言うと、紫野は普段と変わらぬ調子で部屋に上がり火の側へ寄った。
蓑を編み直しながら井蔵が聞く。
「ミョウジは元気か」
「うん」
はあっと両手に息を吹きかける紫野の横で、疾風はただぽかんとしてそれを見ていた。
紫野の来訪は、嬉しいといえば嬉しいが、予測していなかったことだけに正直気が引かざるを得ない。
(俺と数馬が喧嘩したことを、紫野は知っているのだろうか?)
だが井蔵がじろじろと自分を見ているのに感づいた疾風は、思い切って声をかけた。
いつもどおり言ったつもりが妙に上ずり、疾風は(しまった)と思う。
「どうしたんだ。何か……あったのか」