第二百八十八話 銀杏(二)
ゆっくりと、女は微笑んだ。
目元に優しい皺が寄り、ほほ、と声を立てる。
「わたくしはこの屋敷の主、仁左衛門の妻、たねと申します。驚かせてすみませぬよ。その背中の刀に似合わず、おまえさまのお顔があまりにもお若かったので」
それから繰り返した。
「草路村の、紫野さんとおっしゃいますか」
紫野は頷きつつ、
「あの……俺に、俺に覚えはありませんか? もしやあなたは、俺の」
と声をはやらせる。
が女は言下に打ち消すのだった。
「いいえ、おまえさまのような綺麗なお顔、一度見たら忘れるはずはございません。生憎、わたくしには覚えが……」
それでも紫野には説明のつかない確信がある。
心のうちに灯った明かりを、容易く消すわけにはいかぬ。
「小さい頃、俺はこの村にいたようなのです。ずいぶん小さかったから、顔も変わっているかもしれない――あの、本当に俺を覚えていないのでしょうか?」
「存じませぬ」
きっぱりと、女は言い切った。
女の靡かぬ様子に、紫野は打ちのめされた思いである。
まだこの女が母だという確証もないのにもかかわらず、紫野は完全に自分自身を否定されたと感じたのだった。
(俺が――化け物だから)
ふらふらと、紫野は門前を離れ、どうにかハナカゲにまたがった。
杉木立の道に積もった落ち葉が、風に吹かれて乾いた音を立てながら足元を舞う。
「紫野さん」
女の声に顔を向けると、女は籠を脇へ置き紫野の方へと走り寄ってきた。
そうして紫野の手を取り両手で包むようにすると、切ない瞳を向けた。
「幸せでありましたか」
その瞬間、紫野の理由なき確信は本物になった。
間違いなく、この女は母である。
そして自分を捨てた――
紫野はひとつ頷くと、「はっ」とハナカゲの胴を蹴る。
駿馬はあっという間に杉木立を走り抜け、今度こそ草路村に向かって走り出した。
涙は出なかった。
だが紫野の心は冷え切り、同じ言葉がぐるぐると巡る。
会ってはならなかったのだ。
母は俺を捨てた母だ、と。