第二百八十五話 震える心(三)
――紫野……。
さっきの数馬の囁き声が、紫野の耳にこびりついていた。
自分に抱きついてきた時、妙な違和感を感じたが「何でもない」と、あえて無視した。
それは数馬が慣れないハナカゲに乗っているから、だと。
だがあの力の込めようは、「何でもない」わけじゃなかったのだ。
数馬は自分を抱き締めた。そして「紫野……」と呼んだ。
(冗談じゃない……)
紫野は身を震わせると、やっとハナカゲの速度を落とす。
いつの間にか知らない道を来てしまっていた。
しかしふと、右手に見えた杉木立の道に見覚えがあるように感じ、馬を止める。
ここはたしか、笹無村とかいった。
(来しなに通った?)
――いや、通らなかった。
紫野はハナカゲの向きを変えると、石段を上がり杉木立の道に入っていった。
聖羅は前を駆けてゆく疾風の後ろ姿を見ながら、(また紫野を捜しているんだな)と思っていた。
すると突然疾風は馬を止め、聖羅を振り返った。
「――数馬の言うとおりだ。紫野は俺のものじゃない」
聖羅が何と答えたものか戸惑っているうちに、カゼキリから降りた疾風は側の木の枝に馬をつなぎ、道端に座り込む。
聖羅は慌てて自分も同じようにすると、疾風の横に腰を下した。
疾風は、ふうーっと息を吐き出すと顔を伏せ、さらに言葉を継ぐ。
「俺だって……気づいていたさ。"あの時"から、紫野は俺を避けてる――『俺を見るな』、あいつがそう言った日から……」
「そ、そんなことはないさ。あれはあれで終わった。紫野はおまえに謝ったじゃないか」
「聖羅」
そうして疾風は横向きに顔を上げたが、その黒髪の間からのぞく瞳のあまりにも寂しげな光は聖羅の胸を打った。
「嫌われたくない人間に嫌われるのは、辛いな」