第二百七十四話 遠国(おんごく)
あの日、寺へ戻ってしょんぼり部屋へ入ろうとすると、和尚が紫野を呼び止めた。
「おお、紫野。よかった、心配しておったぞ」
そして二人は向かい合って部屋に座る。
和尚はすまなそうに笑い、
「高香は何度かおまえの部屋に行ったようじゃよ。しかしおまえがあまりにもよく眠っておるので、そのまま発っていったのじゃ。『紫野によろしく』と言っての」
――何と言葉を返せばよいのだろう!
紫野には、自分自身を非難する言葉さえ、今は見つけることができなかった。
相変わらず無言のまま正座していると、和尚はちょっと頭を掻き付け加える。
「高香はいつも、冬の間は比叡山で過ごすらしいのじゃが、このたびは暖かい播磨の国に行くと言っておった。播磨の、ある寺で過ごすそうじゃ。それゆえ、少々早めに旅発った。おまえには言ってなかったかも知れんが」
「ハリマ……? 聞いてない」
ハリマとは、どこだろう――紫野の頭の中は、たちまちそのことでいっぱいになる――遠いんだろうか?
目の前がくらくらしてきて、また涙が出そうになった。
和尚が言う。
「春に見えた折、そのことをわしに相談しなさったのじゃ。比叡山の住職にそう勧められたが、どうだろうと。高香とて、一日でも長くこの村にいたいと思っていたのじゃろうて」
だが紫野の心にその言葉は入ってこない。
曖昧な思考のまま、頑固に思い込んだ。
(そんなこと、聞いてない。きっと高香は最近になって決めたんだ。俺が……冷たく振舞ったから)
和尚が出ていって、紫野は顔を伏せて「うう」と泣いた。
――高香、高香、帰ってきて。側にいて。謝るから。
夏が終わるまで、紫野の睫毛を涙が濡らさぬ日はなかった。
そしていつもの年と違い、秋は早めに、ふいの嵐を伴って、すぐそこまで忍び寄っていたのである。