第二百七十話 悔恨
翌昼近く、紫野が目覚めた時には高香はすでに発った後だった。
昨日はそのまま床に寝かされ、高香の手を額に感じながら久しぶりに深い眠りに落ち、ただの一度も目が覚めずに眠ったのだ。
「ミョウジ、高香は?」
読経をしていた和尚は「おお」と振り向いて一言、「もう発ちなさった」と言った。
「えっ!」
紫野は裸足のまま僧坊を飛び出し、ハナカゲに飛び乗ると村の方へと駆る。
心臓が乱れるように打ち、紫野はハナカゲの背で祈るように心の声を上げていた。
(高香! 嘘だ、まだ行かないで! 待ってくれ――)
だが村はずれまで来ても、高香の長身をどこにも認めることはできない。
「高香!」
紫野は大声で呼び、虚しくその場に立ち尽くすしかなかった。
広い平原から一陣の強い風が吹き、紫野の黒髪をなびかせるとともに、頬を伝う涙を後ろへ飛ばす。
胸をぎりぎりと締めつける痛みが襲い、紫野は思わず両手で顔を覆うと天を仰いだ。
「高香……俺も連れて行って……高香」
帰りの道をとぼとぼとハナカゲと歩きながら、紫野はずっと後悔しどおしであった。
もしかしたら、自分があんな態度を取っていたから高香は怒ってしまったのかも知れない。
(確かに俺は苦しかった――苦しくて、高香を避けていた。だけどそれは高香を嫌っていたのじゃない)
いくら後悔しても、今となってはそれを伝えるすべもない。
(ああ、きっと高香は俺のことを嫌いになったのだ! だからこんなに早く発っていった……)
「おおい、どぉしたァ? なんかあったかや」
見張り台の上から又八が声をかけてきた。
紫野はつとめて笑顔になり手を振ると、
「何でもない」
声を張り上げそう答えた――とても高香の名を口にはできなかったから。
又八は見ていたのだろうか、高香が薬箱を背負い、この村を出ていくのを。
また涙が出そうになり、紫野はぐっと歯の奥を噛み締めてこらえる。
そして自分自身に言い聞かせた。
(高香はまた次の春にやってくる。その時に言うんだ――ずっと一緒にいたいって)
そうしてもう一度振り返って丘の方を見ると、ハナカゲの背にさっとまたがり、寺へ向かって駆け出した。