第二百六十九話 空木(うつろぎ)(三)
高香のその声に、雪と聖羅も同時に振り向き紫野を見る。
二人の目に、顔を背け肩で息をしている紫野が映った。
「無理はするな。具合が悪いならすぐに山を降りよう」
高香が言うより早く、雪が心配そうに紫野の側へ駆け寄って顔を覗き込む。
「紫野、どうしたの。何か言って」
それから高香に告げた。
「顔が青い」
(嫌だ、来ないでくれ――来るな!)
言い知れぬ恐怖が、紫野の全身を襲ったようだった。
言葉は実際に声にはならなかったもののたちまち身はこわばり、目の奥が熱くなったかと思うと、突然息ができなくなった。
ついに「うっうっ」と嗚咽しながら喉を掻き毟り、その場に前のめりに倒れ込んでしまったのである。
「紫野!」
驚いた高香は、だが素早く紫野の顎を上げて気道を確保すると、鼻を抓み自分の口を喘ぐ紫野の口につけて懸命に空気を送った。
「深く息をしろ、紫野。大丈夫だ、ゆっくり息をするんだ。ゆっくり……」
聖羅は今にも泣き出しそうな雪の肩を抱き、自分でも落ち着こうとしながら「大丈夫、大丈夫だ」と繰り返している。
それまで草相撲で遊んでいた与助と太平は、その場に固まったまま動かなかった。
やがて草深い山を涼風が吹いていった時、ようやく紫野の目が薄っすらと開いた。
高香はほっとした面持ちで身を起こすと、皆に言った。
「もう大丈夫だ。引き付けを起こしたのだ。さあ、みんな、山を降りよう」
高香の背に負ぶわれながら、紫野は自分では何が起きたのかわからなかった。
自分の唇に高香のそれが合わされたことも意識し得なかった。
ただ、今自分が高香の背に負ぶわれている、そのことに安堵感を覚え、しっかりとしがみついていたのである。
(高香、高香――)
そして今こそ、紫野ははっきりと自分の心を思い知った。
(俺は高香が好きだ。雪よりも……。ずっと一緒にいたい。ずっとずっと、高香といたい……)
高香の髪が涙に濡れた紫野の頬に絡みつき、紫野は思わず高香の髪の中に顔を埋める。
そして胸一杯高香の匂いを嗅ぎながら、山道を下りていった。