第二百六十話 嗚咽(一)
紫野が自分を睨み据え、「俺を見るな!」と言ったので、疾風は驚いてしまった。
箸を止めてぽかんと口を開く。
紫野はそのまま顔を伏せるようにして走り去り、疾風は思わずその後を追おうと腰を浮かせた。と、
「俺が行ってくる」
聖羅は疾風を瞳で制すると、さっと席を立ち紫野の後を追って部屋を出て行った。
皆あっけにとられた顔をしている。
疾風はおどけるように言った。
「悪い。俺のせいだ、紫野を怒らせたみたいだ」
が、本心ではさっぱりわけがわからない。
一方、聖羅は、廊下の暗がりでうつむいて立ちすくんでいる紫野にそっと近づくと、声をかけた。
「おい。どうかしたのか」
すると紫野の口から、意外な言葉が返ってきたではないか。
「疾風の瞳が鬱陶しい」」
「えっ」
と聖羅が聞き返す。紫野はいらいらと繰り返した。
「ずっと俺を見てる。鬱陶しいんだ」
何と言っていいかわからず、聖羅は絶句する。
――紫野が疾風のことを悪く言うなんて、考えられない。
なかば自暴自棄に、紫野は続けた。
「疾風はいつも俺のことを監視しているんだ。俺が子供っぽいことをして、それを笑おうと待ち構えてる。何かあるとすぐ手を出してきて、『やっぱりおまえには無理だ』って言うんだ。――もうたくさんだ」
そうして紫野は胸を包むようにして両腕で自分を抱き締めると「うっ」と声を詰まらせ、直ちに自分の部屋へ駆け込んで、ぴしゃりと戸を閉めた。
聖羅はその一瞬かいま見えた紫野の、怯え切った表情に釘付けになってしまったのである。
(いったい紫野に何事があったのか?)
紫野の部屋は、それきり「しん」と静まり返った。