第二百三十二話 絵の中の鯉
紫野が何となくぎくしゃくしているのを、高香も和尚も感じ取っていた。
そしてそれは、聖羅との喧嘩が原因なのだと疾風から聞かされた二人は、だが少し安堵していた。
――しょせんは子供同士の喧嘩であろう。
と。
もちろん二人とも、会話の内容まで聞かされなかったためにそう思ったのだった。
が、それにしては、疾風があまりにも熱心に寺に通ってくるのを、高香はいぶかしく思い始めてもいた。
そっと遠巻きにして見ていると、疾風は笑顔で紫野に挨拶し、肩を抱いてともに濡れ縁に座る。
そして紫野の体のあちこちをつつきながら、次第に紫野の気持ちを盛り上げていく様子がわかった。
「疾風……か」
高香の中に、複雑な感情が渦巻いている。
微笑ましい気持ちと、うらやましい気持ち――安堵と嫉妬。
高香は、またぞろ現れた鬼にめまいを感じ、一瞬、顔を覆った。
――俗世に長く触れすぎたかも知れぬ。
自分の命のはかなさゆえ、分かち合う者も持たずにいこうと決めていた高香の心は見事に揺れ始めていた。
先日来、紫野とともに薬草を探した時間が、愛しく胸の中に膨れ上がってくる。
何と楽しく、安堵した時間だったことだろう!
――そうだ。私も今や、俗世の人間。
高香は自分が、慣れぬ水にもがいている魚のように感ぜられた。
かつてはたしかに『絵の中の鯉』であり、だが旅をし、人と触れ合うことで肉を得、魂を得た。
紫野と巡り会い、いきいきと血の通う喜びを知り得たというのに、今またあの隔絶された世界へ帰りたいと願っているのだろうか。
所詮、泳ぎ切ることを知らぬ『鯉』は、絵の中へ戻るしかないのだろうか。
高香は今一度、疾風と紫野に視線を移した。
聡明さを示す額、誠実な深い瞳、精気あふれる、浅黒くがっちりとした肢体をもった疾風。
その横で屈託ない笑顔を見せている紫野……向けられたなら、おそらく呪縛されるだろうほどに美しい。
疾風は、ずっと変わらぬ視線で紫野を見守ってきたのだろう。
そして紫野は、疾風に動かぬ信頼を寄せてきたのだ。
今こそ胸の痛みをいかんともしがたく、高香は目を伏せると、音もなくその場を立ち去った。