第二百八話 峠の女(四)
その時、とぎれとぎれの赤子の泣き声の間から、「紫野!」という、はっきりした女の声がしたのだった。
そしてはっと目だけを上げた紫野は、そこに白い光に包まれた女の顔を見た。
すっきりとした面長のその顔には、紫野と同じように切りそろえられた前髪がかかっている。
……見覚えはないが、何となく懐かしい――
だが一瞬で女の顔は光の中に飲み込まれ、あとは白いまぶしい光が一気に広がって林の中を照らすと、その瞬間に怪奇なものたちはすべて雲散霧消したのであった。
聖羅の悲鳴が聞こえてからは、三人は申し合わせたように馬に飛び乗り、一気に峠を駆け下りた。
ふもとまで来た時、どうにか馬を止めると、ようやく三人は口を利く気になった。
「どうなったんだ、今のは」
そう聞きながら、薄闇の中でも聖羅が青ざめ唇を震わせているさまが疾風にはよくわかった。
それで視線を紫野にやる。
「だがよかった。紫野、おまえが声を出したおかげで助かったんだ」
「俺が?」
疾風は頷くと、先ほどのことを思い出し、
「おまえの声が聞こえてすぐ、俺は体が自由になった。そしたら聖羅が叫んで――」
「もういい、早く帰ろう!」
聖羅は神経質に声を上げたが、もっともだと思った疾風は何も言わずに「悪かった」というように片手を挙げて見せる。
ただ紫野が一言言った。
「女のひとだった」
えっ、と疾風は紫野を見、聖羅はびくりと体を硬直させた。
紫野は小さな声で、だがはっきりと話し始めた。
「女のひとが助けてくれたんだ。白い光に包まれた女のひと――あの人が光で照らしてくれて、それでみんな消えた」
疾風も聖羅もぽかんと口をあけたまま、それでもそれ以上は聞こうとはせず、三人はまた馬を進めた。
こうしてようやく寺まで帰りついた時、すでに夕餉を三人分用意して出迎えた作造の顔にどれだけほっとさせられたことだろう。
だが夕餉の後、もはや動けないほどの疲れが彼らを襲い、今夜は寺に足止めとなった。
紫野の部屋いっぱいに敷かれた三組の夜具に転がって、三人はただただ眠った。