第二百六話 峠の女(二)
聖羅は目の前に、頭から血を流した若い女の姿を見た。
疾風はすぐ足元に、倒れ伏す白髪の老婆を見た。
紫野は目を上げて、頭上に逆さに浮かんでいる胎児と目が合った。
ひと呼吸おき、三人は同時に叫んでいた。
だがそれきり体が動かない。声も出ない。
汗だけがどっと噴出し、疾風は焦った。
背中に聖羅の震える体を感じる。紫野の固まった様子を感じる。
これはどういうことだ、何とかしなければ。ただその思いがぐるぐると回っていた。
その間にも老婆の曲がった指が疾風の足にかかり、それが小枝のように突き立った。
疾風は声なき声を上げ、老婆を見守るでもなく凝視するしかない。
(向こうへ行け! 去ってくれ!)
そう懸命に思うのに、あろうことか老婆は顔を上げた――
女はぎこちなく、ゆらゆらと、だが確実に聖羅に近づいてくる。
近寄るにつれ、頭にのめり込むようについた刀傷が嫌でも目につく。
白っぽい小袖は朱に染まり、だらりと下に下ろした腕は泥にまみれている。
聖羅は、今自分の見ているものが信じられなかった。
だが向こうは聖羅を見て笑っているのだ。あんな酷い傷に血を流しつつ、笑って――
腹の底から叫んだ後は、紫野は意外と冷静になれた。
目の前にぶら下がっているかのようなどろどろとした醜悪なモノも、よく見れば顔があり、胴体があり、手には指すらある。
(人間じゃないか)
そう思うと、少なくとも「怖い」という気持ちはなくなったのだった。
だが上から滴るように落ちてくる体液のようなものに、紫野の顔は歪んだ。
そしてポトリとそれが落ちた手首は、そこから見る見るうちにまだらの紫に変色し始めた――
峠に強い風が吹き始めていた。
それはまるで、人のすすり泣く声を山々にこだまさせようとするかのように吹いているようであった。
その山の陰に、とっくに日は落ちている。
辺りはじき、暗くなるはずである。