第百九十五話 茜の願い(二)
疾風が目覚めた時、月が中空に昇っていて家の回りの木々を明るく照らし出していた。
ふと見ると、井蔵もまだ起きていて藁を編んでいる。
灯りが眠っている疾風の目に直接ささないように紙を張ったついたてを置き、さらに背中を向けていたが、疾風が起きたのを気配で感じたようだ――ふっと振り返り、「よう、起きたのか」と言った。
そして、その次の井蔵の言葉に、疾風は完全に目を覚ましてはね起き、ただちに家を飛び出して月の照らす小道を駆けていったのである。
――さっき、茜が来たぞ。
井蔵はそう言ったのだった。
忘れていたわけではない、すっかり眠ってしまったのだ。疲れが出て。
疾風は自分自身に舌打ちしながら、茜がまだ自分の家まで辿り着いていないことを祈った。
だが茜の家に着くまで結局誰とも会うことはなく、かといって今更茜の家の戸を叩くのもはばかられる。
疾風はため息をつくと、そこからそう遠くない茂作爺さんの小屋へ、とりあえず向かうことにした。
何の言い訳にもならないことはわかっている。が、小屋へ行くしかない。
ところが小屋の近くまで来た時、かすかな灯りが漏れ出ているのを見て疾風の心臓がどきどきと高鳴った。
(誰かいる? 茜か?)
そしてその考えは正しかった。
小屋の中には、まさに茜がいたのである。
「茜?!」
茜はあっと声を上げた。そして次の瞬間、泣き出してしまったではないか。
疾風はとっさに謝っていた。
「茜、すまぬ、遅くなって。だけど会えてよかった。――何か俺に用か?」
その間、茜は両手に顔を埋め泣きじゃくっていたが、その姿は以前疾風が知っていた茜ではない。
茜は小さなただの貧相な村娘ではなく、今やどこから見ても年頃のたおやかな町娘である。
ゆったりと背中でまとめられている黒髪は腰のあたりまで伸び、帯の締まった腰は引き締まり、その胸元は十分豊かに見える。
(三年――三年ぶりか)
茜を見ながら、疾風はぼうっとそう考えたのみならず、思わず茜の側により、その肩に優しく手を添えていたのだった。
「疾風」
茜が顔を上げ、疾風はまたどきりとした。
が、その顔は、たしかに茜だ。
丸い顔に狭い額、小さな目と丸い鼻は、幼い頃のまま――それは少しばかり疾風を落ち着かせた。
それにしても、いつの間にか疾風はすっかり茜の背を追い抜かし、今、茜の頭は疾風の首の下にある。
この状態を外から見たところを想像し、(まるで、男女の逢引のようではないか)と思ったとたん、また疾風の胸が鳴り出した。