第百七十二話 花蕾(からい)(二)
紫野はそんな疾風の戸惑いにはまったく気づかず、洗髪を終えると着物をきちんと着直した。
そしてカゼキリの体を挨拶代わりに軽く叩きながら、
「疾風、野駆けに行こう」
と誘った。
「まさかまたひとりで馬に乗るつもりではあるまいな?」
その時背中から和尚の声がして、紫野はびくっと首をすぼめ振り返る。そして、おどおどと言った。
「大丈夫……だってあれは、いたずらっ子たちがハナカゲを驚かせたせいなんだ。ハナカゲは俺を振り落としたりしないから――」
しばらくミョウジは腕を組み眉をしかめていたが、ついに根負けしたように笑うと、
「一度乗れたんじゃ。止めても乗るじゃろうて。疾風、紫野が無理をせぬように、頼む」
「わかった、ミョウジ」
ほどなく三頭の馬が続いて寺の門を出て行った時、和尚はふっとため息をつき、奥にたたずんでいた高香に向かって振り向くことなく話し出していた。
「あの子ももう十。草路村の警固衆にもなり、ひとりで馬に乗れるようにもなり――これからいよいよ外の世界に飛び出して行くのじゃろうのう」
「紫野は幸せです。あなたに巡り合い、よい仲間にも恵まれて」
すると今度は、和尚は深いため息をつき、その顔に暗い翳を漂わせた。
「ほんに美しく、まっすぐに育ってくれた……あの子にいったいどんな呪いがかかっているというのか。呪いなどない、そう思いたくとも、それではなぜあんないい子を手放したのかと思うと、やはりあの子の行く末に何かが起こりそうな気がしてならぬ。わしは今でもあの子を連れてきた女の様子を思い出すことがあるのじゃ。もしや狂気があったかも知れぬ、じゃが有無を言わせぬその態度に、わしはかえって女の紫野への愛情を感じたのじゃ。そう、呪いというのは嘘で、紫野を悲惨な状況から救い出したかっただけかも知れぬ」
一瞬、高香もその端正な顔をくもらせた。
いろいろと巡るうち、虐待や売買の対象にされた幼い子供たちの不幸を、彼も少なからず見たからであった。
「あの子は捨てられても泣きもせなんだ。ただ三日目の夜に『おっ母のところへ帰りたい』と言い出した。わしも作造も粟を食いましてな」
そう言うと和尚は懐かしそうに頬を緩めた。
「紫野は泣いたのですか?」
「少し……な。目にいっぱい涙をため、外を睨んでおった。じゃがしばらくして、わしが頭を撫でてやると、『飯を食う』と言い出した――なんのなんの、たくましい子じゃと思うてな」
二人は声を上げて笑った。
そこで和尚は目を上げると、まるでそこに紫野の姿を見るかのように目を凝らした。
「紫野が、わしや作造の心にどれだけ潤いを与えてくれたことか……。あの子には幸せになってもらいたいのじゃ。だがそう思えば思うほど、何かがわしの心に引っかかる――紫野を待つ運命が、果たしてあの子にとって安楽なものであるかどうか……」
「紫野にはあなたがいます」
高香はまるで勇気付けるかのように繰り返した。
「あなたがいます。そして、疾風も、聖羅も……」
そう言ってから、高香は唇を噛んだ。
今ほど終わりゆく自分の命を恨めしく思ったことはない。