第百六十九話 聖羅とナガレボシ(二)
それから半刻ほどして夕日が沈む頃、寺に戻った紫野は、和尚に厳しく怒られた。
和尚は高香から、紫野が意識を失うほどの落馬をしたことを聞いていたのである。
「まったく、おまえは……何という無茶をするんじゃ! しばらくは安静に寝ていなきゃならん!」
久々の剣幕に小さくなっている紫野の前を、恵心がいい気味だ、と言わんばかりの得意顔で通りすぎた。
和尚は、「夕餉抜きじゃ!」……とまでは言わなかった。むしろ、
「しっかり食べて、今夜はひとりで大人しく寝るように」
と、言った。
しょんぼりしながら夕餉を終え、作造が持ってきてくれた湯で体を清めると、紫野は言いつけどおりすぐ夜具にもぐった。
そして今日、楽しかったことを思い出そうとした。
高香と一緒にハナカゲで駆けたこと、そしてひとりでハナカゲに乗り、聖羅と山道を巡ったこと。(疾風を訪ねたが、いなかった)
聖羅がとても嬉しそうで、ナガレボシも嬉しそうだったこと。
手綱をうまく操るこつを、聖羅にたくさん教わったこと。
その時部屋の障子戸がすっと開いた。
「紫野や。起きているかね」
紫野はがばりと身を起こした。
明かりを持った和尚と、手に何か器を持った高香がそこに立っている。
「ミョウジ……」
和尚はとても優しい眼差しを紫野に向けた。
「紫野、もう一度高香殿に具合を見てもらいなさい。ちゃんと手当てをしておかねばならん」
そして高香と目を合わせる。高香は頷き、手にした器を紫野に差し出した。
「お飲み、紫野」
黙って飲もうとした紫野は、そのどろりとした黒い液体のひどい臭いに顔をしかめた。
「何だ、これ。くさい」
「味もひどいから鼻をつまんで一気にお飲み。あとで水を飲めばいい。さあ」
高香にそう促されて、紫野は心を決めると鼻をつまんで一気にそれを流し込んだ。ごくんと飲んだ瞬間、「げっ」と声が出た。すぐに高香が差し出した水をこれまた一気に飲む。
泣きたいくらい、苦くて変な味がまだ舌の上に残っていた。
が、高香も和尚も誉めてくれた。
「えらいぞ、紫野。よく飲んだな」
それから高香が紫野の後頭部をそっと触り、そこにかなり大きなこぶが出来ているのを確かめると、薬草をすりつぶしたものをたっぷり塗った布をあてがい、包帯で紫野の頭を覆った。
「邪魔だろうが、今夜一晩、こうして寝ているといい。明日になれば腫れはひいているだろうから」
和尚と高香が出ていったあと、さっき仕方なく数えていた「楽しかったこと」が今度は自然に、より楽しい思いをともなって浮かび、紫野は知らず知らずにっこり微笑みながら眠りに引き込まれていった。