第百六十七話 希代の薬売り(五)
手綱を握る高香の指の関節が白く浮き、それを見た紫野ははっとした。
思わず後ろを振り向き、
「高香、どこか痛いのかい?」
と聞く。
高香はほんとうに何かを懸命に耐えている様子だった。こんな辛そうに顔を歪めている高香は初めてだ。
「いや――何でもない」
だがかろうじてそう答える高香の笑顔に、いつもの暖かさはない。
そればかりか、さらに声を掛けようとする紫野に、
「紫野、お願いだから前を向いていてくれないか」
と言った。
山を下り、草路村へ入る広原が見えたとき、ようやくぎくしゃくした空気がとれたのを紫野は小さな背で感じ、「高香、村だ」と言った。
すると手綱を握りなおした高香もいつもの笑みを返し、
「よし、駆けるぞ。紫野、いいか」
そして、ハナカゲの腹を軽く蹴った。
「お、おぅ!」
前屈みにハナカゲのたてがみにつかまりつつ、紫野は興奮の声を上げる。
ハナカゲは軽く走っていたのだが、それでもまわりの景色が飛ぶように流れる中、激しい風を顔に受ける刺激はこたえられなかった。
ハナカゲは広原を一気に駆けぬけ、川岸の土手を、村の中を、二人を乗せて颯爽と走り、やがて寺へ向かう山道の入り口についた。
高香が手綱を絞ってハナカゲを止めると、紫野は「面白かった!」と言って大声で笑い、ハナカゲの首を抱くようにしてたてがみに顔を埋めた。
ハナカゲの毛がしっとりと濡れて光っている。
「ハナカゲ、おまえは最高だ」
それに答えるようにハナカゲは頭を振って、また山道を上りだした。
(本当に、さっきはどうにかなりそうだった――これが欲心というものか)
その波動の強さを、高香はつくづくと思い知った。
その思いが人々を熱くし喜悦を与える一方、相手を傷つけ苦しみの淵に浸けることも容易いということを、身をもって実感したのである。
(人とは、何と業の深いものか)
そうため息をつく自分は、今では僧侶ではないことはわかっている。俗世の人間として、男として、欲心を持ったとしても誰に咎められることもありはしない。
それでも高香には、まだ諸欲に対する罪悪感が消えなかった。
そんな迷う心のまま、自分は決して入るまいと思っていた稚児愛への道筋にも似た気持ちを、純真な紫野に対して持ってしまったのである。
ふと高香の頭に白菊丸の姿が浮かび、ちりりとする胸の痛みにはっと顔を上げた。
(もし紫野に無体なことをしていたら、私は自分を未来永劫、許せなくなるところだった……)
目の前に紫野の艶やかな黒髪が揺れている。
その時、高香の中から一切の欲心は、まるで霧が晴れるが如く、消えた。