第百五十九話 冬の星(四)
冬の朝、弱い陽射しの中で井蔵は目を覚まし、かたわらにすやすやと安らかな寝息を立てて眠る疾風の姿を認めた時、思わず歓喜の叫び声を上げた。
もちろん井蔵の記憶から、いおりのことはすっかり失せている。
「薬草が利いてくれたか。ありがたい」
そして男泣きに泣いた。
昼近く、疾風が目をぽっかりと開け、「親父……」としゃべった時、井蔵は誰かに感謝しなければならないような不思議な感覚に襲われた。
だがそれは一瞬で消え、自分を見上げる息子の黒い瞳をのぞき込み、
「よく頑張ったな、疾風。さすがわしのせがれだ」
と、額を撫でる。それからただちに聖羅の家へ走り、疾風の無事を大声で知らせたのであった。
聖羅は大急ぎで寺へ駆け込むと、やはり手放しで喜ぶ紫野を伴って疾風の家へやってきた。
「疾風!」
土間を駆け上がり、疾風の側へ行く。
「おう……」
井蔵の作った葛湯を飲んで少しだけ顔色がよくなっている疾風が、二人を見てやっと笑った。
紫野はまた泣き出しそうな顔で膝をつき、「疾風、よかった、よかった」と繰り返す。
聖羅はといえば――昨日は唇をかんで耐えていたが、今日は紫野より先に泣いていた。すでに目が、ウサギのように赤い。
「聖羅ったら、ここまで泣きながら走ってきたんだ」
「何を。疾風、紫野のやつ、昨日は馬鹿みたいに大泣きしてたんだぞ。『疾風が死んじゃう』って」
疾風は、だがそれを聞いて笑わなかった。
「――すまぬ」
目尻からあふれ出た涙がこめかみを伝った。
その夜は、打って変わった食欲で、疾風は鍋の粥をぺろりと平らげた。
赤々と燃えるいろりの火を横たわったまま見ながら、わらじを編みなおす井蔵に向かって、「親父」と声を掛ける。
「なんだ?」
手を休め、疾風ににっこりと笑いかけるその表情には慈愛が満ち溢れ、安堵があった。
疾風は体を横にすると、
「あのさ、俺……。俺、いおり姉に助けられたんだと思う」
と言った。
「いおりに?」
井蔵が驚くと、疾風はうん、と頷いて、不思議なことを話し出した。
「俺、白い光の中にいたんだ。どっちに行ったらいいか、ぜんぜんわからなくてうろうろしてた。そうしたら、すごく綺麗な鈴の音が聞こえてきたんだ」
――寂寞たる中、寂寥の音の訪い。
それは仏が死者を導く時、よく言われる風景だ。
(やはり疾風も仏に導かれようとしていたのか)と、井蔵は今更ながらぞっと粟立つ。
疾風が続けて言った。
「見ると、そっちの方から黄金の光が差してきて、ああ、俺も早く行かなくちゃと思ったんだ。で、走ろうとしたら後ろから『疾風』って声が聞こえた。振りかえったらそっちは真っ暗なんだ。その暗黒の中から白い着物を着た女の腕がにょきっと出て、俺をつかんだんだ」
「女の腕が……?」
「うん。それでその女が『疾風、あんたはそっちじゃない。井蔵さんが呼んでる、戻りなさい』って。――あの声はたぶん、いおり姉だ」
井蔵は考えた。
(きぬじゃなかろうか。――だがきぬは『井蔵さん』なんて呼びやしねぇ。だとすると、それはやっぱり……)
そして顔を上げた。と、とたんに涙が溢れ出す。
「そうか、いおりか。いおりがおめぇを助けてくれたのか」
「そうだ。いおり姉だった」
疾風ははっきりと繰り返した。
「ありがとうよ、いおり。ありがとう……」
咽ぶ体の奥でちりりと何かが反応し、井蔵は何か無性に懐かしい思いとともに、しばらくその感動に身を任せた。