第百五十八話 冬の星(三)
寺へ帰って紫野は、今までの人生の中で一度もなかったほど、声を上げて泣き続けた。
泣くことで、疾風を失ってしまうかもしれない恐怖をまぎらわそうとさえした。
だがそれに集中したおかげで、一刻の後には、疲れてぐっすりと寝入ることが出来たのだった。
そうして目が覚めた時、いつの間にか布団の中にいて、闇を見上げながら冴えた頭で紫野は思った。
(――疾風がいなくなるなんて考えられない。絶対にいやだ。……疾風は絶対に助かる、助かるはずなんだ)
紫野はいきなり布団を跳ね除け飛び起きると、中庭に面した障子戸を開けた。
冷気が部屋に流れ込み、紫野の吐く息が白く煙る。
「疾風……」
凍てついた大気の中、突き抜けるように高い空に冬の星があまた光り、流れ星がひとつ、すっと弧を描いて落ちていった。
「いおり、おめぇの役目は、疾風を連れていくことだったのか?!」
井蔵の悲痛な声に、いおりは優しいまなざしを向けたまま、静かに首を横に振った。
――そうじゃないわ、井蔵さん。だってそんなこと、井蔵さんが許すはずないじゃありませんか。……でもこのまま逝かせてあげたら安楽に死ねる。疾風はどうせ長生きしない――もし今助かったら、苦しんで死ぬことになるのよ。
それを聞いたとたん、井蔵はがばと両手をついて身を伏せ、絞るような声でいおりに懇願した。
「それでもいい、疾風を助けてくれ、疾風の命を……。こいつはまだいくらも生きちゃいねぇ。男として、本当の喜びすら知っちゃいねぇ。なのにむごすぎる。代わりにわしの命を持って行け。疾風を助けてくれ、頼む、いおり――!」
顔を上げた井蔵の頬には涙が滝のように流れ、口元はどうにもしてやれない悔しさに激しく歪んでいる。
「わしにはもう疾風しかいない。代わりに、代わりにわしの命を取ってくれ。わしを連れて行け、頼む!」
だがいおりはちょっと袂で顔を隠し、困ったように言った。
――困るわ、井蔵さん。私には井蔵さんの命を奪う力はないのよ。私はただの幽霊だもの。
うう、と井蔵が泣き崩れた。いおりはそれを悲しい目で見つめている。
「ならどうすりゃいい……。好きな女と所帯を持ち、子を育てる。そんな当たり前のことが、疾風には許されんのか……。なぜだ、なぜ疾風なんだ」
――大切なひとを失いそうになる時、皆そう思う。でも、寿命なら仕方ないわ。井蔵さん、あなたもいずれ――。
すると焼けばちになったか、井蔵は座りなおすとあぐらをかき、両手で顔をこすりながらくっくっと笑った。
「……いおり、おめぇ、ずいぶんと割り切っていやがる。自分のこともそんな風に思えるのかね?」
その言葉にちょっと首をかしげたいおりは、いっそう悲しげな目をし、だが薄っすらと微笑んだようだった。
ため息のような、ひそやかな空気に乗って、それは静かな鈴の音の如く井蔵の耳に届いた。
――私はねぇ、たしかに一度死んだわ。でもお役目があるって言ったでしょ? それは、もう一度死ぬこと……疾風の代わりに。
何っ、と井蔵が顔を上げた。体がわなわなと震えている。
「いおり……おめぇ、今何と……疾風の代わりに死ぬだと?」
袂で半分隠れたいおりの顔。その目からつうと涙が流れ落ちるのを井蔵は見た。
――いおりは今度こそ、本当に井蔵さんとお別れします。疾風の意識が戻ったら、井蔵さんの記憶の中から今のいおりはすっかり消えます。井蔵さんに優しく抱いてもらったいおりは、すっかり……。
「いおり……」
幽霊になってまで井蔵に抱かれに来た、いおりである。それがどんなに辛いことか、井蔵には想像できた。
「いおり……」
やっぱりわしの命を持っていけ、ともに行こう、そう言おうとした時、
――さようなら、井蔵さん。
その一言を残し、白い光のいおりはふっと消えた。