第百五十三話 ゆるやかな午後
「何を笑っているのだ、紫野?」
紫野は、はっと目を開けた。
ぜんぜん気がつかなかったが、いつの間にか高香が部屋にいて、寝そべって思い出し笑いをしていた紫野の側にかがんでいたのだ。
「高香」
まるでウサギのようにぴょんと跳ね起きると、紫野は言った。
「ハナカゲに乗りに行こう」
それを聞いた高香は、涼やかな声で笑い、
「今警邏から戻ったばかりだろう? 疲れてはいないのか?」
と言った。
紫野は首を横に振る。
今回は隣村の龍神村へ徒歩で一日同行しただけだ。元気いっぱいの紫野には何でもない。
「早くハナカゲに乗れるようになりたいんだ。高香が一緒だと、ハナカゲも嬉しいみたいだし」
ハナカゲは大人しい牝馬だが、神経質なところがある。無骨な男に触られるのを嫌がるのだ。
しかし高香の手には、最初から優しく頭をすり寄せた。
「おまえは優しい目をしているな」
ハナカゲを撫でながら、高香も情を込めて話し掛ける。
かくして今まで馬に乗ったこともなかった高香だが、ハナカゲの背にはなんなくまたがり乗りこなすことが出来た。
「すごい、すごい。俺もひとりで乗りたい」
そう言ってハナカゲにひとりで乗ろうとした紫野だったが、ミョウジにも作造にも止められた。
まだ九つの紫野がまたがるには、脚の長さが十分でない。
実際のところ、和尚も作造も、なぜ嘉平次がこんな幼子に馬などくれたのかと多少疑問であった。
「しばらくは大人と一緒に乗りなさい。落ちて骨でも折ったらどうする」
「じゃあ、高香と乗る」
ふくれ面の紫野が言った。
「でも、この夏の間には、ひとりで乗れるようになる」
こういう物言いをした時の紫野は、頑固だ。
(せめてあと三年――)と眉を下げる和尚を、半ばなだめつつ、
「大人しい馬です。おそらく和尚さんも今後他村へ行かれる時など、お乗りになれましょう」
と高香が口添えし、やっと和尚は馬に触れた。
ぶるる……と鼻を鳴らしつつ頭を垂れているハナカゲの様子に、「ふむ」と納得したようである。
「じゃが、まあ、しばらくはひとりで乗ってはいかんぞ」
そう言いながら、和尚と作造はその場を立ち去ったのだった。
夏草がゆっくりと風に揺れ、風の道を示している。
ハナカゲの背に乗った紫野と高香も、ゆっくりと揺られていた。
「ナガレボシにも乗ってあげなきゃ、可哀想かな?」
そう言って、紫野はちらりと高香を振り返る。
「本当は、俺がハナカゲに乗って、高香がナガレボシに乗ってあげるといいんだけど」
「紫野」
高香が釘を刺す。
「この夏の間は、だめだ」
そうは言いつつ、紫野は高香と二人でハナカゲに乗るのが嬉しかった。
高香の前に乗って体を密着させ、後ろから話し掛けられるのは何となくくすぐったく、心地好い。
ハナカゲを歩かせつつ、地上から高く浮いたところで二人で他愛もない話をする時間は、紫野にとっては一番楽しいものであった。