第百四十三話 三人の午後(二)
「もういい。放っといてくれ」
そう言うと、紫野は黒髪を揺らして木陰から出ていった。
走っていって小川に下りて行く。
その様子を見ながら、聖羅がさすがに頭をかいた。
「なんで高香のことを言うと怒るのかな?」
すると疾風もため息をつき、
「さあ……な。たしかに紫野のやつ、ちょっと変わってるかもな」
ついに同意した。
小川の水を手ですくい、気の済むまで飲みながら、紫野は自分の気持ちをもてあましていた。
自分でもわからない。
別に高香のことを話題にされるのが嫌なんじゃない。むしろ、たくさんしゃべりたいのに。
でもなぜか、実際に高香の名が出ると、まともにしゃべれなくなる。
心のさざなみを、疾風や聖羅に知られまいとすればするほど顔に出てしまう。
「高香、高香、高香……」
声に出して言ってみた。
「高香、高香、高香……」
(――ほら、何ともない。やっぱり聖羅が自分に振るせいだ)
「聖羅のばか」
無謀にも紫野は着物のまま流れに入り、川床の石を枕に寝転がった。
あっという間に着物が水を含み、一瞬ぞくりと違和感が全身を走り抜ける。
それでもすぐに、紫野は水と同化した。
肌を伝う冷たさが心地好い。
顔のすぐ横を、白い花が流れていった。
「紫野、何してる」
はっと目を開けると、真上に疾風と聖羅が見えた。
当然のことながら、二人とも唖然としている。
「放っといてくれ」
水の流れに負けないように、大きな声で紫野は言った。
「誰も俺を見るな」
すると疾風がざぶざぶと紫野の横に来て、同じように横になった。
「これで見えない」
寝転がったまま紫野があきれていると、左側にも水音と水はねを感じた。
「俺も見ないぞ」
今度は聖羅の体が紫野の横に横たわる。
自分が始めたこととはいえ、あきれて声もない紫野を真中に、川の中に川の字を書いた三人は、しばらく流れの中にいた。