第百三十八話 白い影(二)
女のすすり泣きがいっそう高まり、不思議なことに紫野の体の中は、火が巡るように熱くなった。
それは、目の前のことが大人の領域であって、見てはいけないものを見たという罪悪感よりも強いものであったかも知れぬ。
「タァーーーッ!」
伊吹のその掛け声に、紫野ははっと我に返った。
そして反射的に腰の剣を抜き身構えると、目の前の敵を斬ることに意識を集中させる。
「うぬ!」
やっと、ただのガキではないことが男にもわかったらしい。
女を横へ蹴り転がすと、片手で地面に置いた武器をさぐった。
だが暗がりで見つからない。
おそらくすっかり油断して、女を押し倒した時、考えもなしに放り出してしまったのであろう。
「ちっ!」
舌打ちすると、がっしりと伊吹の槍をつかんだ。
伊吹は小さく「あっ」と声を出した――槍を放せば、逆に突き殺される。
伊吹は必死で取られまいと力を込め、ついに叫んだ。
「紫野!」
紫野はなぜか、動けなかったのである。
先ほどの衝撃がまだ体を巡っていて、まるで酔ったように火照る思いを抑えつつその場に立っていた。
「紫野、助けてくれ!」
伊吹の絶叫もむなしく、男はついに槍をもぎ取ると伊吹の腹を貫いた。
そして逃げようとする女の背中から槍を突き立てると、やっと己の武器を見つけ、それを手にして紫野の方を振り返った。
その瞬間、紫野の心を支配したのは恐怖ではなく、怒りである。
呪縛は刹那に解かれ、紫野の足は地を蹴った。
男は、自分に向かってきた紫野に一瞬驚いたようであるが、すぐさま刀を振りかざし上から斬り下げようとした。
が、その時。
男の視界から紫野が消えた。
はっと上から来る紫野に気づいた時、男の頭部は半分なくなっていた。