第百三十話 情愛
その年の春、かえでは男の子を生んだ。
去年、襲われた時に身ごもった野武士の子である。
あの悪夢の後、かえでは自分から彦輔との祝言を断ったのだった。
こんな身で嫁ぐわけにいかぬと自ら決心したものの、やはり数日は泣き暮らした。
そうして腹の中に卑しい男の子を宿していると知った時、愕然としたことである。
しかしそんなことで死を選ぶようなかえでではなかった。
子に罪はない。
(生もう)
即座にそう決心した。
「かえで、調子はどうだ?」
毎日藤吉が声を掛けてくれる。そして腹の子の存在を知った藤吉は、迷わず、
「かえで、俺と一緒になろう」
と言った。
(この子には父が出来た)
かえではそう思う。
しかしいおりはもう永遠に、子を作ることも、母になることもないのだ。
かえでにはまた、井蔵も哀れに映る。
井蔵はいおりの葬式の時もいっさい取り乱した様子を見せず、平然としているように見えた。
だがあの雨の日、ただちに村の男たちを集め二人の野武士を追い詰めた井蔵が、一人を谷底へ斬り落としたと聞いている。
その形相はくもる雨の視界の中でも凄まじく、味方でも怖気たと藤吉が言っていたほどである。
「井蔵さんは、いおり姉ちゃんを忘れるだろうか……」
子を胸に抱き乳をやりながら、ふとかえではそんなことを口に出した。
だが二人とも、まだ肌を触れ合ったこともなかったはずだ。
そんな女に、男というものは情を残すだろうか。いくら井蔵とて、それはないように思われた。
(――それでも)
満足そうに乳を飲む赤子の赤い頬をそろりと撫でる。
赤子の顔を見ていると、かえでは何もかも、許せるような気さえした。
(井蔵さんは、いおり姉ちゃんが命を懸けて好きになった男なんだ)
――かえで。
その時誰かの呼び声に、はっとして顔を上げた。
天井の梁のすみに、靄のような白いものが見え、かえでは目を凝らした。
白い、女の顔のような……。
――大丈夫よ。井蔵さんはずっと私を忘れないから。
ほほ、と笑ったえくぼのある顔は、間違いなくいおりだった。