第百二十九話 薄氷(二)
恐怖から、紫野は逃げた。
次郎吉の赤鬼のような顔を思い起こすことも恐怖だったし、その次郎吉が今死にかけているということも恐怖だった。
そしてその死にかけている次郎吉が、自分の名を呼んでいると聞いた時、紫野は叫ばざるを得なかったのだ。
(――次郎吉は、俺も一緒に連れていく気なんだ)
「行くものか。行くものか……絶対に、行かない」
奥の部屋で、紫野は頭を抱えて震えていた。
しばらくすると、廊下で足音がし、疾風が部屋に入ってきた。
「大丈夫か、紫野。茜はもう帰った。――嫌なら行かなくていいじゃないか。そら、顔を上げろよ」
「疾風!」
ついに紫野は泣き声を上げた。
「次郎吉は、俺を連れていく気なんだ! 嫌だ、嫌だ、助けて!」
聖羅が驚いて障子の陰からのぞいている。
疾風は聖羅を手招きし、それから紫野を支えるようにして言った。
「大丈夫だ、紫野。言っただろ? 俺がおまえを守るって。俺と聖羅がおまえを守ってやる。連れていかせやしないさ」
「そ、そうだ。俺と疾風で押さえててやる。おまえが次郎吉に取られないように」
そう言って聖羅は紫野の手を取ったが、その手は本当に震えていた。
「疾風……」
不安そうに聖羅が疾風の顔を見たその時、紫野の頭がぐらりと揺れた。
あっと思う間もなく、紫野の体は疾風に持たれかかるようにして倒れていった。
その日から三日後、村では次郎吉の葬儀が行われたが、やはり紫野は行かなかった。
さすがに長吉は納得が出来ず、葬儀が終わってから疾風と口論になってしまった。
長吉は家族思いの長子である。
親が、「こんなことなら、末吉を里子になんぞやるんじゃなかった」と嘆くのを見て、いっそう次郎吉が哀れになったのであろう。
「あんなに次郎吉が呼んでいたのに。紫野は鬼じゃ!」
そう言って、語気強く紫野を責めた。
「違う、紫野は具合が悪くなって来れなかっただけだ」
思わず、紫野を弁護する疾風にもきつい言葉を吐く。
「何が兄貴だ。おまえなんか、いつも紫野の味方をするくせに。……紫野をとられなくてほっとしてるんだろう、次郎吉が死んで嬉しいんだろう?!」
その時聖羅は、いつも優しい疾風が本気で怒ったのを初めて見た。
「長吉――!」
疾風の全身から炎が立ったようだった。
「次郎吉が死んで嬉しい、だと? 今のは本気で言ったのか!」
一瞬、身を引いた長吉が、それでも強気に言い返したのはやはり死んだ次郎吉への思いのためだろうか。
「ああ。それに紫野だって、喜んでるだろう。あいつ、次郎吉に嫁にすると言われて困ってたからな。――何だ、あんな女男!」
「それ以上、紫野を悪く言うな! おまえに、紫野の気持ちがわかるとでも言うのか」
「何をっ。おまえこそ、次郎吉の気持ちがわかるのか。おまえなんか、……もう兄貴でも何でもないや! 失せろっ」
じつに重い沈黙に、その場の空気がそよとも動じない。
ついにそれを破ったのは、疾風だった。
「……行くぞ、聖羅」
その場から離れつつ、疾風の背中が泣いているように聖羅には思えたのだった。