第百十九話 春の小川
疾風にとんでもないところを見られた――。
今の紫野の心には、羞恥心以外、何も存在しなかった。
恥ずかしくて恥ずかしくて、泣き出したいくらいだ。
――あんな女の着物を着て、次郎吉と寝てるところを見られるなんて。最悪だっ。
どこを走っているのか自覚がなかったが、気がつくといつも魚を獲っている小川の淵に出ていた。
咲き乱れる菜の花をかき分けるようにしてそのまま川の流れに入ると、両手を突っ込みすくった水をごくごくと飲む。
それから、こんなに喉が乾いていたのに気づかない自分に、また腹を立てた。
「えいっ、えいっ」
いきなり両足で水を蹴り上げる。着物が濡れるのもおかまいなしだ。
紫野は、心の中で自分をなじり始めていた。
――次郎吉の言いなりになって。女の着物を着て。
「えいっ、えいっ」
勢いよく水がはねる。
――どうして、嫌だって言えないんだろう。どうして、自分でどうしたいかがわからないんだろう?
「えいっ、えい――」
春の流れが、ばしゃっ、ばしゃっと音を上げた。
集まっていた小魚が、戸惑うように黒い体を左右に揺らして散り、また安全な岩陰に身を寄せる。
しかめ面の紫野の頬に、黒髪がぺったりと張り付いていた。
「そんなに乱暴だと、魚が皆逃げてしまうぞ」
その時、頭上から降ってきた声に、紫野は思わず振り向いて土手を見上げたのだった。
そこには旅姿の人影があった。
すらりとした長身、背中には薬箱を背負っている。
白い長髪を後ろで束ねたその人物は、紫野に向かって菅笠の下から端正な微笑を見せていた。
「――高香!」
紫野は川から飛び出すと、急いで土手を上った。
「元気にしていたか? 紫野」
息を弾ませ紫野は頷いたが、それが精一杯だ。
「和尚さんもお変わりないか? おさとさんの子供たちは?」
紫野はまた無言で首を横に振る。
高香は優しく微笑んだ。
「そうか、よかった」
その笑顔はさっきまでの紫野の暗い心を明るくした。やっと、言葉が出た。
「高香。また俺と一緒に寝てくれる?」
「いいとも」
高香は紫野の頭を撫ぜ、二人は並んで歩き出した。