第百十一話 水車小屋にて(三)
井蔵の頭が吹っ飛んだ。
「ま、待てっ、三十路男をからかうんじゃねぇ。なんで、いおりが……」
そうは言いつつ、今更ながら、あばら家に来てあれこれと尽くしてくれたいおりの姿が目に浮かぶ。
朝餉にと汁物を作ってくれたいおり、ためてしまった洗濯物を引き受けてくれたいおり、部屋に野花を飾ってくれたいおり……。
そして井蔵は自分の着ているものに目をやった。
それは数日前、疾風を通していおりが届けてくれた麻の着物だった。
そのことに気がついて、井蔵の顔は火照った。
――いおりの思いに気づいていた気はする。だが、わしはもう三十六、いおりはまだ十九だ。……それにわしには、きぬがいる。
もう死んでしまったきぬを、井蔵はまだ忘れてはいない。
それでもたしかに、若いいおりの笑顔は、時々、井蔵の心を焼いたのだった。
ついに井蔵はため息をついた。
「だからといって、どうにもなるめぇ……かえで、おめぇ、一体何を考えてる?」
するとかえでは身を乗り出して、
「お願い、井蔵さん。いおり姉に会って。村の外でなら、父ちゃんたちに知られないですむでしょう?」
――何だって?
今度こそ、井蔵は頭を殴られた気がした。
「かえで、おめぇ、いおりと一緒にわしをはめたのか?!」
とたんにかえでは大仰にかぶりを振り、
「違う、姉ちゃんも知らないことよ。姉ちゃんが数日前、帰ってくるなりものすごく泣いて、井蔵さんの名を呼んでいたから」
そして、
「姉ちゃん、『死にたい』って言ったの。だからあたし、何とかしていおり姉ちゃんと井蔵さんを……」
「それで、芸人に口車合わせてもらったってわけか。かえで、おめぇは……」
やっぱり子供だな、そうあきれながら、それでもこの後のことを考えると冷静ではいられない井蔵である。
「いおりをここへ呼んで、どうするつもりだ?」
三十路男の威厳をもって言ったつもりだったが、井蔵の動揺をかえではしっかり見抜いたようにくすっと笑い、
「逃げ出すなんて、だめよ」
と先手を打った。