第百十話 水車小屋にて(二)
井蔵は藤吉の肩をとんと叩き、「早くいおりを呼んで来い」と言った。
「父ちゃんとじっちゃんには、知らせないで!」
念を押すように、かえでが怒鳴る。
藤吉は押し黙ったまま、小屋を出ていった。
井蔵は市べぇに、
「とにかく源平太に、かえでは無事だと伝えてくれ。それから藤吉に、いおりをここへつれてこさせるんだ。わしはもう少しかえでと話してみる。何か企んでるようだ」
と、小声でささやき、市べぇは「わかった」と頷いて藤吉の後を追った。
小屋の中の藁の上に、かえでは心なしかしょんぼりと座っていた。
その姿からは、男と駆け落ちしたという大人の女はまったく感じられない。
「駆け落ちってぇのは、嘘だな」
かえでは、こっくりと頷いた。
「なんでこんな嘘をついた。源平太に嫌な見合いでも勧められたか」
「それはしょっちゅうだよ」
かえではぽつりと言った。そしていきなり顔を上げ、
「井蔵さんは、いおり姉ちゃんのこと、どう思ってるの?」
その目がほとんど泣き出しそうである。
「な、なんでぇ、いきなり……」
井蔵の方が面食らった。相当に、驚いた。
「いおり姉ちゃんに、近寄るなって言ったでしょう。姉ちゃん、ひどく泣いていたわ。なぜ、そんなこと言ったのよ」
「言った……っけな」
井蔵はもごもごと口ごもる。覚えがなかった。
だが、かえでは目を吊り上げると、さらに強い調子で井蔵に迫った。
「言った。もうここへは近寄るなって。村のもんに見られたらいけないって。井蔵さんはいおり姉ちゃんのことが嫌いなの?」
「ちょ、ちょっと待った、それは」
思い出した。
たしかにそう言ったかも知れぬ、と思う。
「――だがそれは、いおりのためだ。いい縁談があると聞いていたから、そう言ったんだ」
「いい縁談? 姉ちゃんはお嫁になんか行かないよ。だって、井蔵さんが好きなんだから!」