第百七話 百合の匂い(二)
疾風はいおりの作ってくれた着物の袖に手を通した。
麻のさらさらした感触。
さすがに長者の家には、いい織り布がある。
「よかった、よく似合う。――どう?」
「う、うん。……とってもいい気持ちだ」
麻の感触もさることながら、いおりの手が自分のからだの上をすべる感触が、疾風を陶酔させた。
それどころか、いおりの女体から生ずる熱と息遣いがため、喜びと困惑がない交ぜになった疾風は目が眩みそうになる。
はっと我に返ると、目の前にいおりの顔が近づいていた。
ぎゅっと、抱き締められた。
耳元にいおりのささやきがした。
「――疾風、私を抱き締めておくれ」
その瞬間、疾風は自分でも驚くほどの力でいおりを抱き締めていた。
いおりの両手が疾風の頭をつかみ、頬と頬を密着させる。
何が起きたのか、わからない。
疾風は唇に、今まで感じたこともない柔らかなものが押し付けられるのを上の空でとらえていた。
が、次の瞬間、いおりはさっと疾風から離れ、にっこりと笑った。
「似合ってよかった。では、またね」
ありがとうの言葉さえまともに返せない疾風に、いおりは「そうそう」と言ってもうひとつ包みを出した。
「これ、井蔵さんに」
これもまた、いい麻の着物である。
いおりは、なぜか疾風の目を見なかった。面を伏せたまま、
「疾風にだけじゃ、井蔵さんに悪いから」
そして、くるりと背を向けて走り去った。
ぽかん、と口を開いたまま、疾風は新しい着物を手に突っ立っていた。
「……?」
「見たぞ、疾風」
その時、林の小道から藤吉が現れたのだ。
藤吉はにやにやしながら側へ来ると、疾風の着物の袖をつまみ、
「さては、いおりのやつ、おまえを待つつもりかな」
「何のことだ?」
疾風が問うと、藤吉は真面目な顔で、
「いおりのやつ、もうずっと縁談を断っているのさ」
と言った。
そして今度は疾風の手にある着物をつつきながら、
「いくら孫平や源平太が侍や町人を引き合わせようとしても、首を縦に振らないそうだ」
「……」
「なるほど、そりゃおまえに惚れてたからか。……だがなぁ、いくらおまえが好きでも、おまえはまだ子供だし」
そんなことは言われなくてもわかっている。
勝手に結論付けている藤吉に腹が立って、疾風は思わず言い返した。
「俺が、いおり姉を守ってみせる!」
その日のうちに、藤吉はいおりに思いを寄せている翔太に面白おかしく報告したのだった。