第百六話 百合の匂い(一)
あれは四、五日前のことだった。
「疾風、こっちに来ておくれ」
そう言って自分を手招きするいおりの可愛いえくぼに、疾風の目は吸い寄せられていた。
別嬪三姉妹の長女いおりが、白地に藤色の小花を散らした着物の片袖に左手を軽くあて、右手の白く細い指をひらひらさせて疾風を招いているのだ。
その日疾風は、父に言いつけられてかまどの掃除をしていたのだが、その薄暗く埃にまみれた場所から、ふと顔を上げて戸口のほうを見た時、明るい光に思わず目を細めたのは光のせいだけではなかったろう。
そこにいるべきはずもない、いおりがいたから。
男所帯の疾風にとって、いおりは眩し過ぎるほどの、まさに女神のような存在なのであった。
「疾風、あなたに着物を縫ったの。着ておくれ、さあ」
ぼうっと頬を紅潮させたまま、疾風は「う、うん」と頷いた。
十九歳のいおりは、もうすでに少女ではなく女の匂いを強烈に放っている。
あまりにも近い距離で感じるいおりは、疾風の体の芯を熱くときめかせた。
そう、ずいぶん昔からいおりは、人目のないところで疾風を胸に抱き寄せてはひとりごとをつぶやくことが多かったように思う。
疾風にしてみれば嬉しいには違いなかったが、戸惑いは慣れるどころか年々大きくなっていった。
男と女、その区別をはっきりと意識するようになっていったからである。
母、と思い込むには、いおりは若すぎた。
「さ、その着物を脱いで。着せてあげる」
疾風は焦った。
「で、でも……俺、今かまどを掃除してるんだ。父ちゃんに言われて……だから汚しちまう」
「井蔵さんに?」
いおりの目が、すっと細まった。
またあの悩ましいえくぼが口元にあらわれる。
「そう……。じゃあ終わるまで待ってるわ。ここに座っていてもいいかしら?」
と、戸口の腰掛けを指差す。
疾風はひとつ頷くと、慌ててかまどへ戻った。
――こんなこと、してられない。いおり姉を待たせるなんて。
藁の束でかまどを適当にこすると、柄杓も使わず桶の水をぶちまけた。
そしてすすで汚れた鼻の頭を拭いながら、また大慌てで外へ出た。
いおりがにっこりと微笑み、「あら、早かったのね」というその言葉さえ、夢の中で響いているようである。
「さ、着物を」
疾風はちょっとためらったが、えいっともろ肌脱いだ。
十歳の子供にしては存外にたくましい浅黒く日に焼けた肌があらわれ、いおりが着物を広げる手を止めてほうっとため息をつく。
「ああ、疾風はほんに強そうじゃ。うっとりする」
だが疾風は、
――とんでもない。
と、思う。
うっとりするのは疾風の方である。
頭とからだが空を突き抜けて、林の向こうに飛んでいきそうであった。