第百二話 春の待ち人
そろそろと、第三部を始めてみます。いよいよ、紫野・疾風・聖羅の三人に焦点をあてたお話です。どうぞよろしくお願いします。
紫野が草路村にきてから丸三年がたち、新しい年も明け、紫野は七歳になっていた。
その春、菜の花が野山を覆うと、紫野は村はずれの丘にちょくちょく登っては、誰かが村へ入ってこないかと窺い見ることをしていた。
井蔵につれられて疾風たちと山に行った帰りも、そのあたりにくると首を伸ばしてきょろきょろしている。
「おい、紫野。何か探しているのか?」
背中でその気配を感じた疾風が振り返り、そう訊ねた。
すぐその後ろを歩いていた聖羅が、背中のしょいこを揺すりながら、くっくっと笑う。
「こいつ、時々、”きょどうふしん”だ」
新しく覚えた言葉である。
昨日村で寄り合いをした時に、最近この近辺によく出没する盗人や落人の話が出た時のこと。
紫野の親代わりである妙心和尚が井蔵に、
「くれぐれも、挙動不審な者を村に入れぬようにな」
と言ったのである。
草路村では、黙って聞くことができれば子供でも寄り合いに参加できる。
三人も剣の師匠である井蔵につき従い、常に寄り合いには出て、神妙な顔をして聞いていた。
疾風はもっと幼い頃から大人たちに頼りにされていたから、こんな場所でも違和感なくなじんでいる。
大人たちは疾風には対等に接し、その意見は茶化さずに聞くのだ。
だが、紫野と聖羅の場合は、ちょっと違う。
「おう、よう来たな」
そう言って頭をくしゃくしゃっと撫でる。
大きな黒い瞳をくるくるさせ、黙って撫でられるままにされている紫野にくらべ、聖羅は頬を朱に染め、口をすぼめて大人たちに聞こえないようにぼやくのが常だった。
「触るな……」
さすがに「挙動不審」と言われ、紫野ははっとした様子であった。
立ち止まって、疾風と聖羅の顔を交互に見る。
「違う。俺はただ、もうすぐ高香が来る頃だなと思って」
「高香……あの若い薬売りか」
井蔵が思い出したようにあごに手をやった。
紫野が、めずらしくはにかんだ表情を見せている。
「春になったら――また来るって言ったから」
「へーえ。いつの間にそんなに仲良くなったんだ? 全然気づかなかったな」
聖羅が面白そうに口笛を吹いて、疾風を見た。
すると疾風はいつもの快活な笑顔を見せ、
「ああ、あいつか。たしかにいろんなことを知っていて楽しかった」
そして聖羅に、
「あいつ、寺に寝泊りしてたんだ。そりゃ紫野とも仲良くなったろうさ」
と、言った。
「白い髪の、変なやつ」
おどける聖羅の腕を、紫野がぐいと引く。
「変じゃない、いい人だ! ……ミョウジもそう言った!」
その真剣な瞳を見て、何か言い返そうとした聖羅はぐっと声を飲み込んだ。
「ミョウジにかかっちゃ、誰でもいい人だがな」
井蔵が苦笑しながら口を挟む。
「だが、わしもあの薬売りは気に入っている。おさとの子供たちの病を、あっという間に治しやがった。てぇしたもんだ」
そうして一行はまた山道を歩き出したが、紫野が疾風にからだを寄せて、
「とってもいい香りがするんだ」
と、内緒ごとのようにつぶやいた。
「いい香り?」
嬉しそうに紫野が頷く。
「草のにおいだ。あのにおいを嗅ぐと、何だかほっとするんだ」
「ふーん」
高香のことだ、と思った瞬間、疾風の胸を説明のつかない感情がよぎり、疾風はそれをはぐらかせるように聖羅を見た。
聖羅は小枝を剣がわりに、掛け声も勇ましく、側の藪をつつきながら歩いている。
「一緒に寝たのか?」
紫野のおかっぱの頭が縦に揺れ、「楽しかった」という小さな声が聞こえた。