【第陸編】 ミルク
今の時代、赤ん坊を背負う男なんて珍しくもなんともない。
だが、その男の風貌は、赤ん坊を背負うにはあまりに似つかわしくなく、道行く人々の中には思わず二度見をしてしまう者もいた。
その男は、白いダブルのスーツに、真っ赤なネクタイを締め、赤いポケットチーフを胸に挿し、ティアーズドロップのサングラスをしていた。背はやや高く、180㎝はあるだろうか、がたいも良く、何かスポーツでもしていたのか、かなり広い肩幅と、スーツの上からでも分かる筋肉質な体格が、後ろに背負われている赤ん坊をより小さく見せている。
背負われている赤ん坊は、男の歩く揺れが心地よいのか、おしゃぶりを咥えたまま、静かに寝ていた。
「お前、津本弘海だな。」
突然一人の紫色のスーツを着た男が、白スーツの男の前に立ち塞がった。
「そうだと言ったら。」
津本弘海と呼ばれた白スーツの男が応えるよりも早く、紫スーツの男が胸元から拳銃を抜き出し、発砲を始めた。
それを見た津本弘海は素早く銃口から身を躱しつつ、距離を詰め、両手で銃を押さえ込んだ。そして、そのまま紫スーツの土手っ腹に蹴りを入れ込み、銃を奪い取って、マガジンを抜き取って捨てた。
ほんの数秒の出来事だったが、周囲から悲鳴が上がり、あたりは騒然となった。
「危ないじゃないか。こんな街中でこんなもん使うもんじゃないぜ。堅気さんに当たったらまずいだろ。」
白スーツの男は手に持った空の銃を指先でクルクル回しながら、地面に転がっている男に詰め寄る。
「くっそぉ!」
男は立ち上がると、懐からナイフを取り出し襲いかかってくるが、銃でさえ殺せなかった男をナイフで傷つけることなど出来ず、またしてもあっと言う間にナイフを奪われ、再び土手っ腹に蹴りを食らって地面に転がった。
「警察です、道を空けてください。」
銃声を聞きつけた警官が二名駆け寄ってきていた。
「どうしたんですか。何があったんですか、……って、またあなたですか。」
警官の一人が津本弘海に尋ねるが、顔を見て、呆れた声を上げる。
「また、って言われてもな。こっちは被害者なんだぜ。」
見知った顔の警官に、男から奪ったナイフと銃を手渡し、先程捨てたマガジンを拾い上げて、それも手渡した。
すると、それまで後ろでスヤスヤと寝ていた赤ん坊が目を覚まし、大きな声で鳴き始めた。
「おうおう、ウンチだな。分かった分かったちょっと待ってろ、今おむつ取り替えてやるからな。……という訳で、行っても良いかな。」
津本は警官に尋ねる。
「ああ、何かあれば、後で話を聞くから。」
「分かりましたよ。それじゃ。」
津本はそういって、警官に片手をあげて、近くの商業施設にあるトイレへと駆け込んでいった。
「おうおう、たっぷり出たな。元気な証拠だ。」
津本は下げていたジュラルミンケースを開けると、中からお尻ふきと、新しいおむつを取り出し、赤ん坊のお尻を綺麗に拭き取ってから、新しいおむつを履かせた。
「よし、これで良しと。」
再びおんぶ紐に赤ん坊を乗せて、背中に背負い、使用済みおむつをビニールに包んで臭いが漏れないよう密閉して、ジュラルミンケースにしまい、忘れ物がないことを確認して、トイレを後にした。
赤ん坊は津本の背中でおしゃぶりをチュパチュパとしゃぶりながら、津本が歩く振動に併せて、キャッキャと笑っていた。
「おうおう、ご機嫌だな。良い夢でも見たか。それとも、ウンチ出てすっきりしたか。」
津本は商業施設を後にすると、そのまま駅へと向かう。
特急も停まるちょっと大きな駅で、毎日数万人が利用するらしい。そのままスマホを翳して改札を抜け、ホームで列車を待つ。
二両編成の列車がホームに滑り込んでくると、ボタンを押してドアを開けて乗り込み、後ろに人がいないことを確認して、閉めると、列車は間もなく出発した。
背中では相変わらす赤ん坊がキャッキャと喜んでいる。
「お前は列車に乗るのが好きだからな。将来は運転手だな。」
そう言うと津本は列車の一番前に行き、背中からおんぶ紐を外し、赤ん坊を抱きかかえて、前面展望が見えるようにしてやる。
「どうだ、楽しいか。」
津本の言葉に、分かっているのか、赤ん坊は「あ~あ」と言って返事をしたような反応を返す。
「そうか、楽しいか。」
一時間も乗っただろうか、津本は目的地のある最寄り駅で、列車を降りた。赤ん坊はもちろん、おんぶ紐で背中にいる。
「さあ、着いたぞ。ここから、歩くからな。」
津本がそう言うと、赤ん坊は「あ~あ」と言って返事をする。
「お前は本当に賢いな。将来は博士だな。」
津本はゆっくりと歩き出した。赤ん坊は、津本が歩く度に起こる振動が楽しいのか、キャッキャとはしゃいでいる。
何もない駅前は、まさにローカル駅という名にふさわしく、昔はここにもタバコ屋兼雑貨屋の店が一軒あったのだが、店番に立っていたばあさんが亡くなって、店を閉めてしまったようだ。それ以来、この村には、店というものがなくなった。
駅前の通りを暫く行くと、深い谷底の下に川が流れていて、その上を通る橋に差し掛かる。子供の頃は、この川へ降りていって、泳いだり、魚を捕まえて食べたりしたものだが、今はそんなことをする子供など、一人もいない。そのせいなのか、川へ降りていく道は雑草が覆い茂り、道も崩れてしまっていた。
「お前にもこの川で遊ばせてやりたいな。お前が大きくなったら、降りられるようにしような。」
赤ん坊はまた「あ~あ」と反応する。
「そうか。お前も遊びたいよな。大きくなるのが楽しみだろ。それなら、ちゃんとミルク飲まなきゃな。着いたらミルクやるからな。沢山飲んで、大きくなれよ。」
赤ん坊はまた「あ~あ」と言う。
津本は、橋を渡り、小一時間程山道を歩き、一軒の家の前に着いた。
生垣で取り囲まれた立派な家屋は、二階建ての瓦屋根で、田舎では良く見る農家の母屋である。その母屋へ向けて、門から玄関アプローチまで石畳が延び、左には前庭が広がっている。前庭の奥には納屋があり、昔使用していた農具が収められている。もう埃を被り、使い物にはならないだろうが、それでも、大事に保管したままになっている。
津本はそのまま、玄関アプローチまで歩いて、ポケットから鍵を取り出し、玄関を開けると、引き戸を開く。
「ただいま。」
誰もいない玄関に向けて、津本は声を掛ける。
当然だが、誰も「おかえり」とは言ってくれない。
「さあ、着いたぞ。今ミルクを作ってやるからな、ちょっと待ってろな。」
津本はそのまま廊下を進み、奥の台所へと向かう。
まずは手を丁寧に洗い、喉の汚れを洗い流し、薬缶でお湯を沸かす。
お湯が沸く間、仏間へ向かい、線香に火を付けて、仏壇に手を合わせる。
「ばあちゃん、じいちゃん、かあちゃん、先代、津本組組長津本弘海、ただいま戻りました。」
仏間の壁には、先祖代々の遺影がずらりと並んでいた。まるで、弘海の帰りを歓迎しているかのように、笑顔で「おかえり」と迎えてくれているようだ。
津本は再び台所に戻ると、ジュラルミンケースを開けて、中から粉ミルクと哺乳瓶を取り出す。それから、使用済みおむつの入ったビニール袋を取り出して、ゴミ箱へ捨てる。
もう一度手を洗い、哺乳瓶をきちんと洗浄すると、丁度お湯が沸いたので、ミルクを哺乳瓶に作った。
人肌になるまで冷ますため、そのままテーブルの上に置き、食料棚に保管してある粉ミルクの缶を取り出し、ジュラルミンケースで持ち歩いている粉ミルクの補充をし、紙おむつも併せて補充した。
「そうだな、もう津本組は俺だけになっちまったからな。後はお前に託したいところだけど、お前は列車の運転手か、博士になりたいだろうからな。津本組は俺で仕舞いだ。」
津本は背中の赤ん坊に語った。
「まあ、農家なんかやってるヤクザなんて聞いたことないもんな。いずれこんな風になることは分かっていたさ。それで農家も辞めちまったし、ヤクザ稼業も中途半端だしな。お前には、なんも残してやれないかも知れないな。」
津本は顔を天井に向けて、遠い目をする。
その時、玄関口の方から声がした。誰かが呼んでいるようだ。
津本が玄関を映すモニターを確認すると、そこには近所に住む田中がいた。
玄関に向かって、鍵を開けて、扉を開けると、田中はおっ居たという顔をした。
「どうしました。」
津本が尋ねる。
「おう、そうだ、ほれ、ウチで今朝獲れたからよ、食ってくれや。」
そう言って、足元に置いてある箱一杯の野菜を指差す。
「いつも、いつも、こんなにすみません。ありがとうございます。」
津本は頭を下げる。
「良いってことよ。お互い様。昔はおたくの親父さんに、沢山貰ったからよ、今度は俺がお前さんに沢山やる番さ。それより、嬢ちゃんは元気にしてるか。」
田中が津山の背中でキャッキャしている赤ん坊を覗き込む。
「ええ。ほら、ご挨拶しな。」
そう言って、背中の赤ん坊を田中の方に向ける。
すると、赤ん坊は田中の方に手を伸ばして「あ~、あ~」と言葉にならない声を発していた。
「えらいなぁ、ちゃんとご挨拶できるんだな。将来は大臣だな。」
そう言って田中はにこやかに笑う。
「大臣ですか、お前、ハードルが上がったな。」
津本もそう言って笑う。
「おっと、あんまり長居してっと、ウチのかあちゃんに怒られるからよ、これで帰るわ。まあ、何かあったらいつでも声かけてくんな。出来ることはするからよ。」
「ありがとうございます。いつも、本当にすみません。お野菜、遠慮なくいただきます。」
「おう、たっぷり食べてくんな。ウチのは美味いし、栄養もあるからな。そんじゃな。」
「はい。ありがとうございます。」
田中はそうして帰って行った。
津本は足元にある野菜の入った箱を玄関に取り込み、扉を閉めて鍵を掛ける。そして箱を持って、台所へと戻ってきて、箱を置くと、もう一度手をきちんと洗い、ミルクが冷めたかどうか確認する。
人肌よりも、少し冷たくなってしまったが、充分冷めたので、背中から赤ん坊を降ろし、抱っこをすると、その冷めたミルクを口に含ませる。
赤ん坊は、ものすごい勢いで、哺乳瓶を空にしていくのだった。
<完>




