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赤いチューリップ、花言葉は  作者: 楠木千佳


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手の温度を知る、七月


 暑くてだるくてしんどいけど、一年で一番長い休みがすくそこまで来ている。部活の時間は長くなり練習もよりハードになるが、それでも休みという事実に心躍るのが長期休暇というものだ。

 だけど、それを目一杯楽しむためにはまず乗り越えなければならない大きな壁がある。


「来週から期末試験だ。赤点補修受けたくないなら、今週くらいはちゃんと勉強しろよー」


 夏休み最初の一週間、学校に登校するかしないかの運命を分ける期末試験である。赤点補修授業は一教科につき一日一限で、赤点の数によっては普通に学校生活送るのと変わらない。しかも夏休みの宿題とは別に特別課題が毎日出る。

 担任の言葉に「えー」「やだー!」というブーイングが教室のあちらこちらからあがった。


「やだもへったくれもないよ、決まりだからな。はい、じゃあホームルーム終わり!」


 帰りのホームルームが終わると、それぞれ部活へと散っていく。いつもなら奏汰もその流れで部活で行くのだが、今日は立ち上がることもなく座ったまま。

 近づいてきた橋詰がにやにやと奏汰を揶揄った。


「まぁたですか、宿題忘れん坊奏汰くん!」

「やって満足して寝ちゃうんだよ! ほっとけ!」


 ダンッと拳を叩きつけた机には、英語の教師から今日中に提出するよう渡された問題プリントが乗っている。昨夜必死にやった宿題を家に忘れてきた奏汰に、教師が特急で作ってくれた特別製だ。

 やりたくなくてギリギリまで目を逸らして、あとは寝るだけの段階でようやく取り掛かるから悪いのはわかっている。頭を使って疲れるから、やって満足して明日の朝しまえばいいやと寝てしまうのが悪いのもわかっている。


「ま、頑張れよ!」

「はいはい早く行けよ……」


 教室からはあっという間に人がいなくなり、奏汰一人だけになった。

 静かになった教室でプリントと向き合う。休み時間にちまちま進めていたが、そもそも得意ではない。半分も進んでいないプリントを前に、奏汰は渋々ペンを手に取った。


「英語苦手だぁ……」


 一問解いて、手が止まる。

 動詞とか形容詞とかわけわからない。単語もかなりあやふやで、日本語の例文を英語に訳す問題はとくに苦手だった。

 ぐしゃぐしゃと髪をかき回して、ばたりと机に倒れ伏す。


「青野君、大丈夫ですか……?」


 最後に誰かが閉めていった扉がスライドする音と、おそるおそるといった風にかけられた声に奏汰の上半身が跳ね上がった。


「葉山さん!?」

「あっ、邪魔してごめんなさいっ! 忘れ物をしてしまって……」

「全然邪魔じゃないっ!」


 扉に半分体を隠した美雨が会釈をしてから教室に入ってくる。彼女は廊下側の自分の机の中から筆箱を取り出すとそれを両手できゅっと握り、少し悩んだ後その場に留まった。

 美雨の様子を目で追いかけていた奏汰と再び目が合う。瞬間、目線が泳いだのは奏汰だ。

 なんとなく気まずい空気を誤魔化すいい言葉が見つけられなくて、持ったままだったペンで頬をかきながらそのままを口にする。


「情けないけど……あんま勉強得意じゃないんだよね、俺」


 今日も宿題忘れてきちゃうし、と。言葉にするとますます情けなくなった。


「そんなことないです! 私だって、宿題忘れてくること、あります!」

「……へへ、ありがと」


 美雨が首を横に振る。フォローが優しくて、でも今は力なく作り笑いを浮かべるくらいしかできない。本当に情けない。


「もう少しだし、頑張るよ。忘れ物あった? 葉山さんも部活頑張って」


 これ以上気を遣わせるのも申し訳なくて会話を切り上げようとした奏汰に、美雨は顔を真っ赤にして何故か右手を挙げた。


「あ、あのっ、私で良ければ解らないところ、教えます……!」


 え?と間抜けな声が出た。

 口をぽかりと開けて見つめてくる奏汰に耐え切れなくなったのか、挙がっていた右手が徐々に下がっていく。続いた「ご迷惑でなければ、ですが……」という言葉が震えていて、奏汰はようやく意味を理解する。

 椅子を倒す勢いで立ち上がったので、その激しい音に驚いて美雨の肩がびくりと跳ねた。

 ハッとして、そのまま詰め寄りそうだった身体に急ブレーキをかける。ひとつ息を吐き出して落ち着いてみれば、教室の静けさが二人きりを強調する。

 心臓の音が聞こえた。


「迷惑なんて、そんなことない! でも、俺はめちゃめちゃ有難いけど、かなり迷惑かけちゃうやつじゃない?」

「教えるのも勉強になるので大丈夫です!」

「……俺、ほんとに馬鹿だから……葉山さんの邪魔にならない程度で大丈夫なので、よろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げた。でも美雨がどんな表情をするか気になってすぐに顔だけ上向いてしまう。

 美雨は緊張が解けて気が緩んだ様子で、胸元に筆箱を握る手を抱え込み「頑張ります」と柔らかく笑っていた。

 相変わらず、心臓の音はうるさい。

 勉強は早速翌日から、朝や放課後の僅かな時間に前日勉強してわからなかったことを訊く形式で教わることになった。美雨の教え方は丁寧でわかりやすく、そして教えてもらうのだからと思えば家できちんとテスト勉強もできる。

 意外とやればできる子だったのかと、不思議な感覚だ。

 試験結果も過去一番の出来だった。


「すごいです! さすがです、青野君!」


 美雨はぱちぱちと手を叩き、まるで自分のことのように喜んでくれた。まっすぐ褒められるとくすぐったい気持ちになる。

 奏汰は両手の平を美雨に向けて胸の高さに掲げた。美雨はきょとんとした顔でそれを見つめてくる。


「部活で勝った時とか、よくハイタッチするんだ」


 ハイタッチ、と呟いた彼女は一度自分の手を見て、それからきょろきょろと何故か周囲を確認した。

 移動教室から戻る途中で奏汰は美雨を呼び止めた。廊下には他にも雑談している生徒が多数おり、二人も日常風景の一部として馴染んでいる。

 ただの思い付きだったのだが、困らせているかもしれない。冗談だったことにしてやめようかなと思った矢先、パンという軽い音と共に手に温度を感じた。


「大勝利、ですねっ」

「……葉山さんのおかげ! ありがとうございました!」

「こっ、こちらこそ! いつも助けてもらってばかりなので……力になれたなら、よかったです」


 部活の仲間たちとは力加減もなにもせず勢いのまま叩き合うから、バチンッという激しい音と痛みが伴う。だけど美雨としたハイタッチは、ハイタッチというよりはただ触れ合っただけだ。

 でも初めて触れた手は、柔らかく温かかった。


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