触れた指先、切れた糸
足音を、消す必要はなかった。
街は休日で、人が多く、笑い声が多い。
一人分の足音なんて、誰も拾わない。
拾われるのは――
名前だ。
前を歩く背中。
銀色の髪。
その隣に、茶色の影。
セナ。
呼ばれている。
あいつに。
自然に。
当たり前みたいに。
胸の奥で、何かが軋んだ。
(……呼ぶな)
声に出していないのに、喉が焼ける。
呼ぶのは俺だ。
セナの名前は、俺が大事に呼ぶものだ。
屋台。
甘い匂い。
笑い声。
セナは笑っている。
野外訓練の疲れも、森の埃も、全部置いてきた顔で。
(……俺のいない顔だ)
視線が、勝手に低くなる。
首。
鎖骨。
指。
その指先に――
別の手が、触れた。
ほんの一瞬。
砂糖が付いたのを拭うみたいに。
自然で、親しげで。
――切れた。
音は、しなかった。
でも確かに、何かが。
頭の中で、糸が切れる音だけが響いた。
(……触るな)
理性が、言葉になる前に溶ける。
抑えていたものが、抑える意味を失う。
尾行?
そんな軽い言葉じゃない。
俺は、追っている。
奪われる前に。
戻すために。
セナは、気づかない。
気づくはずがない。
背中が、あんなに無防備なんだから。
「これ美味しいよ」
「だろ?」
聞きたくない。
聞こえてしまう。
声が、近い。
距離が、近い。
(近すぎる)
胸が、痛い。
怒りじゃない。
焦りだ。
――失う。
その可能性が、はっきり形を持って迫ってくる。
三ヶ月。
離れていた時間。
俺は、毎晩、悪夢で息が止まって。
セナの匂いだけを頼りに、朝を迎えて。
その間に。
その間に、セナは――
誰かと“並ぶ”ことを覚えた。
(違う)
違う。
セナは、俺の夫だ。
俺のだ。
足が、勝手に前に出る。
距離が縮まる。
一歩。
また一歩。
声を掛けたい。
引き戻したい。
腕を掴んで、離すなと言いたい。
でも、今ここでやったら。
“壊れる”。
いや。
もう、壊れている。
セナが、ふと振り返る。
胸が跳ねる。
――目は、合わない。
俺は、人の波に紛れて、立ち止まる。
視線だけが、焼ける。
その瞬間。
また、触れた。
今度は、指先が絡むほど近く。
籠を受け取る時。
自然に。
疑いもなく。
完全に。
――切れた。
糸じゃない。
鎖だ。
繋ぎ止めていた、最後の鎖。
呼吸が、浅くなる。
視界が、狭くなる。
(……奪われた)
確定する言葉が、頭に浮かぶ。
俺は、笑えなくなった。
歩けなくなった。
それでも、目は離さない。
置いていかれたのは、俺だ。
でも、終わっていない。
終わらせない。
(セナは、俺のだ)
それだけが、残った。
静かに。
確実に。
壊れながら、追い続ける。
――触れた指先は、
もう、戻らない。




