甘い屋台と苦い視線
街は、休日の匂いがした。
焼き菓子の甘さと、油の弾ける香りと、花束みたいに色のある布地の店先。
歩くたびに視界が忙しくて、目が足りない。
「これ!ここ!新しい屋台!」
弾んだ声に引っ張られて、私は流れに乗る。
野外訓練の三ヶ月が嘘みたいに、地面が平らで、靴が沈まなくて、空が近い。
(街って……こんなに、易しいんだっけ)
易しいのに。
胸の奥だけが、時々きゅっと縮む。
焼き菓子の屋台は、本当に新しかった。
木の看板がまだ白く、文字が少しだけ頼りない。
でも、焼きたての香りは堂々としていて、あっという間に腹が鳴った。
「ほら、セナ。これ、絶対好きだろ」
目の前に差し出されたのは、薄い生地を重ねた甘い菓子。
粉砂糖が、朝の光みたいにふわっと落ちた。
「好きに決まってる!」
言い切ってから、口の端に砂糖がつく。
それを、笑いながら指で拭われた。
「……ついてる。ほら」
あまりにも自然で、私は反射で礼を言いそうになって止まった。
(相棒、相棒)
自分に言い聞かせるのに、胸がちょっとだけ騒ぐのが腹立たしい。
少し離れたところで、シアンがぱちぱちと手を叩いている。
その横にいるファルケは、無言で財布を出して、彼女の欲しいものを黙って買っている。
その一連が慣れすぎていて、最早“儀式”だった。
(ああ、完全にペア……)
微笑ましい。
微笑ましいのに。
背中が、寒い。
風が吹いたのかと思って肩をすくめた。
でも、頬を撫でる風は生ぬるい。
(……じゃあ、何)
ふと、視線が浮く。
無意識に背後を探す。
人混み。
笑い声。
屋台の列。
誰も、こちらを見ていないように見える。
見えないのに、見られている感じだけが消えない。
「セナ?どうした」
声が落ちてきて、私は慌てて笑った。
「ううん、なんでもない。……この菓子、食べると口の中が幸せだね」
「だろ。ほら、もう一個買っておけ。保存もできる」
保存。
その言葉だけで、身体が勝手に野外の癖を思い出す。
(駄目だ、森が抜けてない)
笑って誤魔化す。
「森の部族、しぶとい」
その返しに、隣の相棒が嬉しそうに目を細めた。
その表情が、あの焚き火の夜と重なって、胸がまた小さく鳴る。
歩きながら、屋台を覗き込む。
布の店、香草の店、魔道具の店。
変成科村なら、
全部“作る側”だったのに、
今日は“買える側”だ。
(買い物って、楽……)
油で揚げた串の屋台の前で、足が止まった。
焼けた肉の匂いに、頭の中の理性がちょっと溶ける。
「肉……」
呟いた瞬間、後ろから笑い声が来た。
「野外の族長、肉に弱いな」
「弱い。弱いです。だって鹿肉は尊かった」
そう返したら、今度は別の声が笑った。
「尊いは肉に使う言葉じゃないだろ」
低い声。
短い突っ込み。
ファルケだ。
シアンが腕を絡めて、得意げに言う。
「いいの!族長は族長なの!」
「族長って言うな!」
声が出た瞬間、また背中が寒くなった。
今度は、はっきり。
誰かが、私の声に反応したみたいに。
呼ばれたわけじゃないのに、名前を拾われたみたいに。
私は串の匂いから目を逸らして、人混みの奥を見た。
――見えない。
見えないのに、視線だけが刺さってくる。
(……やだな)
胸の奥が、さっきから落ち着かない。
楽しいのに。
街がこんなに明るいのに。
「セナ、串。食べる?」
差し出された串を受け取りながら、私は曖昧に頷く。
「食べる。……ありがとう」
口に運ぶ。
脂が弾けて、塩が効いて、喉が喜ぶ。
それなのに、味がどこか遠い。
(……おかしい)
何が?
何が、こんなに――背中を冷やす?
歩く。
笑う。
買う。
食べる。
全部、明るい。
全部、普通の休日。
そのはずなのに、私は何度も無意識に振り返りそうになる。
“見えない誰か”を、確認するために。
「そうだ、次、アクセ屋に行く?」
「行く行く!セナも行こ!」
「……行くか」
シアンが腕を引っ張って、私はまた流される。
レックが当然のように私の荷物をまとめて持つ。
重くない。
でも、持たれると、何故か安心してしまう。
その安心が、背中の寒さをさらに際立たせる。
(……私、何やってんだろ)
ラウルに会いたい。
急にそう思った。
理由は分からない。
分からないのに、喉の奥で名前が疼く。
(……ラウル)
昨夜の腕。
心音。
枕に埋めた顔。
あの「帰ってきた実感が湧く」という声。
今日の朝の、整いすぎた目。
“またね”と言った時、動かなかった足。
――思い出が、妙に刺さる。
胸の奥が、冷える。
背中の寒さと同じ温度で。
私は、足を止めかけて、でも止められなかった。
止めたら、何かが終わる気がしたから。
だから私は、笑う。
「ねえ、次の屋台、何があるかな」
「甘いのがある。絶対ある」
「確信強いな」
「生存の勘だよ」
笑い合う声は軽い。
軽いのに、私だけどこか置き去り。
その時。
背中の寒さが、一瞬だけ“熱”に変わった。
ぞくり、とした。
温度が、ある。
冷たい視線じゃない。
熱い視線。
見えないのに、近い。
私は息を止めた。
喉が鳴った。
(……なに、今の)
振り返りたい。
でも振り返れない。
怖いからじゃない。
振り返ったら、私の“休日”が壊れるって分かってしまったから。
私は前を向いたまま、串を握りしめた。
指先に、砂糖と塩と脂が混ざる。
甘い。
しょっぱい。
濃い。
街は、こんなに明るいのに。
私の背中だけ、
ずっと冬みたいだった。




