誰だよあの男
視界に、焼き付いている。
風。
髪。
指先。
――耳に、かけた。
誰だ。
誰が、そんなことをした。
変成科の寮前。
灯りが落ちて、影が濃くなる時間帯。
俺は、そこに立っていた。
ただ、待っていた。
セナが戻ってくるのを。
それだけだ。
……それだけのはずだった。
先に聞こえたのは、笑い声。
複数。
森の中で聞いたことのない、軽さ。
ああ、戻ってきたんだな。
そう思った瞬間――
「セナ」
呼ぶ声。
俺のじゃない。
その一音で、胸の奥がひっくり返った。
視線が、勝手に動く。
目が、離れない。
背の高い男。
茶色の髪。
距離が近い。
近い。
近すぎる。
風が吹いて、銀色が揺れた。
その男の指が、迷いなく伸びて――
耳に、かけた。
……は?
何を、した。
一瞬、音が消えた。
血が、逆流する感覚。
セナは、驚かない。
避けない。
拒まない。
それどころか――
笑った。
胸の奥で、何かが軋む音がした。
骨が擦れるみたいな、不快な音。
(……当たり前、みたいに)
あの距離。
あの触れ方。
あの笑顔。
俺のいない三ヶ月で、
“当たり前”になった距離。
後ろを見る。
恋人繋ぎの二人。
変成科の班だ。
誰も、止めない。
誰も、違和感を覚えていない。
――回っている。
俺がいなくても。
セナの隣に、別の男がいても。
世界が。
胸の奥が、冷える。
いや、違う。
熱い。
煮えたぎる。
抑え込もうとして、余計に広がる。
(……名前、呼んだな)
セナを。
呼び捨てで。
俺以外が。
喉の奥が、鳴った。
息が、荒くなる。
そこで、セナがこちらを見た。
視線が合う。
一瞬で、表情が変わる。
ああ、知ってる。
俺に向ける顔だ。
笑って、
安心して、
戻る場所を見つけたみたいな――
「……ラウル」
その声だけで、
全部、持っていかれる。
俺は、何も言わなかった。
言えなかった。
ただ、一歩踏み出して。
手首を掴んだ。
力は、抜いている。
でも、離す気はない。
「来い」
短く。
低く。
セナは、逆らわない。
当たり前みたいに、ついてくる。
背後で、声がする。
笑い声。
軽口。
聞こえない。
聞く気もない。
歩きながら、考える。
――誰だ。
あの男。
いつから。
どこまで。
胸の奥で、黒いものが蠢く。
形を持たないまま、確実に増えていく。
理性?
そんなもの、最初から頼っていない。
行動が先だ。
いつも。
俺は、セナを離さない。
それだけだ。
……それだけのはずなのに。
手を引く力を、
無意識に、少しだけ強めていた。




