父の一言は雑で深い
朝食が終わって、食卓の上が片付いたあと。
母は洗い物に戻り、台所には水の音が一定のリズムで流れている。
私は椅子に残って、さっきの会話を頭の中で反芻していた。
“続けられる日常”。
いい言葉だと思う。
現実的で、やさしくて、逃げ場もある。
……でも。
「考えすぎだな」
不意に、対面から声が落ちてきた。
顔を上げると、父がいた。
新聞を畳み、椅子に深く腰をかけて、こちらを見ている。
いつもの、どこか力の抜けた表情。
「え?」
「顔に書いてある」
指で自分の額を指しながら言う。
「“私は今、人生を左右する重大な選択をしています”って」
「……してるよ!?」
抗議すると、父は肩をすくめた。
「そりゃ、そうなんだろうけどな」
軽い。
母とは別ベクトルの軽さだ。
「父さんはね」
そう前置きして、彼は言う。
「進路相談ってやつが、昔から苦手だ」
「……自覚はあるんだ」
「あるとも」
即答。
「だってな、どれを選んでも、結局“自分”がやるんだろ?」
……あ。
「魔術科だろうが、治癒だろうが、防御だろうが」
指を折りながら数える。
「総合だろうが、専門だろうが」
そこで一拍。
「向いてないことは、やらなくなる」
「……」
「向いてることは、勝手に続く」
妙に雑な言い方なのに、
なぜか、胸の奥にすとんと落ちてきた。
「だからな」
父は、机に肘をついて言う。
「“向いてるかどうか”を先に決める必要はない」
「でも、試験が……」
「試験は、試すもんだ」
遮られた。
「決めつけるもんじゃない」
……強い。
父は、魔術師だ。
派手なタイプじゃない。
研究者肌でも、前線型でもない。
でも、長く続けている。
それがすべてだ。
「父さんはね」
彼は、少しだけ目を細める。
「一度も“これが天職だ!”なんて思ったことはない」
「え?」
「でも、辞めようと思ったこともない」
その言葉に、私は息を止めた。
「毎日やれてるなら、それで十分だ」
……それだけ?
「それだけ」
にやっと笑う。
「で、嫌になったら方向変えりゃいい」
「……軽い」
「重く考えるから、動けなくなる」
台所の水音が止まり、
母がこちらをちらりと見る。
「また、適当なこと言ってるでしょ」
「適当じゃないぞ。経験談だ」
母は小さくため息をついて、でも笑っていた。
その様子を見て、私は思う。
この人たちは、
“正解”を押し付けてこない。
「セナ」
父が、最後に言った。
「学園はな」
一拍。
「“選ばれる場所”じゃない」
……ん?
「“試される場所”でもない」
さらに続く。
「“生き方を縛る場所”でもない」
では何なのか。
「――増やす場所だ」
増やす。
「知識も、技術も、選択肢も」
父は、指を三本立てた。
「増えたら、戻ってこられる」
「……戻る?」
「そう」
彼は、椅子から立ち上がる。
「戻ってきて、別の道を選べる」
それは、
逃げではなく、
柔軟さの話だった。
「だから」
父は、ぽん、と私の頭に手を置いた。
「行ってこい」
それだけ。
命令でも、激励でもない。
ただの一言。
なのに、胸の奥が、じんわり温かくなる。
「……うん」
私は、素直に頷いた。
母が、後ろから声をかける。
「ほら、ラウル待ってるんじゃない?」
言われて、玄関の方を見る。
確かに、気配がある。
「行ってきます」
そう言って立ち上がると、父は軽く手を振った。
「気楽にやれ」
「それ、できたら苦労しないよ」
言い返すと、父は笑った。
「できなくても、生きていける」
……ほんとに雑だ。
でも。
その雑さが、
今の私には、ちょうどよかった。
こうして私は、
少しだけ肩の力を抜いて、
学園という“次の場所”へ向かう準備を始めた。
正解は、まだ分からない。
でも、進める気は、ちゃんとあった。
――それで、十分だと思えた朝だった。




