母の現実的アドバイス
朝の台所は、いつも通りだった。
窓から差し込む光は柔らかく、鍋の中ではスープがことこと音を立てている。
焼きたてのパンの香りが広がって、昨日までの「進路どうしよう地獄」が、少しだけ遠のいた気がした。
……気のせいだった。
「で?」
湯気の向こうから、母がこちらを見る。
エプロン姿、髪はさっとまとめられていて、いつもの“生活者”の顔。
「学園、どうするの?」
直球。
私は椅子に座ったまま、背筋を伸ばした。
「えっと……魔術師にはなりたいです」
「うん」
即肯定。
「その中で、どれにするか悩んでて……」
「うん」
まだ肯定。
「治癒もいいし、防御もいいし、攻撃も捨てがたいし……」
「うん」
頷きが多い。
「で、総合魔術科っていうエリートコースもあって……」
「うん」
ここまで来て、母はようやくスープを混ぜる手を止めた。
「セナ」
名前を呼ばれる。
「悩む順番、逆じゃない?」
……ん?
「え?」
母は、火を弱めてから、こちらに向き直った。
「なりたい“職業”を先に決めようとしてるでしょ」
「うん……」
「それ、学生が一番やりがちなやつ」
やめて。
胸に刺さる。
「大事なのはね」
母は指を一本立てた。
「どんな日常を送りたいかよ」
……日常?
「学園を出たあと、どんな生活をしたいのか。
毎日外に出たい?
研究室に籠もりたい?
人と関わりたい?
一人で完結したい?」
質問が、次々と飛んでくる。
「魔術は手段であって、目的じゃないの」
うっ。
「……でも、魔術師になりたいのは本当で」
「それはいいのよ」
母は笑った。
「魔術が好きなのは、よく分かってる」
そう言われて、少しだけ胸が温かくなる。
「だからこそね」
母は、真面目な顔になる。
「“できるかどうか”より、“続けられるかどうか”を考えなさい」
続けられるか。
派手さ。
肩書き。
強さ。
そういうものばかり見ていた自分に、気づかされる。
「総合魔術科が悪いわけじゃないわ」
母は続けた。
「でも、あそこは“全部やりたい人”より、“全部背負える人”向け」
「……重い」
「重いわよ?」
即答。
「あなた、根は真面目だから」
ぐさ。
「全部できなきゃって思い始めたら、潰れるタイプ」
さらにぐさ。
「ママはね」
母は、少しだけ目を細めた。
「あなたが、毎日ちゃんと笑ってる姿が見たいだけ」
胸の奥が、きゅっと鳴る。
「無理して強くならなくていい。
でも、好きなことからは逃げないで」
その言葉は、柔らかいのに、芯があった。
「……じゃあ」
私は、ゆっくり考える。
「“守る”のは、嫌いじゃない」
「うん」
「人のそばにいるのも、嫌じゃない」
「うん」
「でも、研究室に籠もりっぱなしは、たぶん向いてない」
「うんうん」
母は、満足そうに頷いた。
「それ、十分なヒントよ」
そこへ、食卓に皿を置きながら、父が口を挟む。
「要するにだな」
さらっと一言。
「向きは、生活の中に出る」
……深いようで、雑。
でも、分かる。
「セナ」
母が、最後に言った。
「学園は、ゴールじゃない」
「……うん」
「通過点」
その一言で、肩の力が抜けた。
悩むことは、悪くない。
でも、悩みすぎなくてもいい。
「ありがと、お母さん」
素直に言うと、母はにっこり笑った。
「どういたしまして」
そして、鍋を指さす。
「ほら、スープ冷めるわよ」
現実的だ。
でも、その現実が、今はとてもありがたかった。
私はスプーンを手に取りながら、思う。
学園。
魔術。
進路。
全部、これからだ。
焦らなくていい。
選び直してもいい。
――続けられる日常を、選べばいい。
そう思えた朝だった。




