今夜は、いいよ
「一緒に寝るの、今夜はいいよ」
条件付きでも、突き放しでもない。
理由の説明も、念押しもない。
ただ、今夜の選択として、そう言われただけだった。
俺は、何も言わずに頷いた。
声を出したら、何かが零れる気がしたから。
布団に入る。
距離は、いつもより少しだけ、慎重だ。
触れないようにしているわけじゃない。
触れてしまったときの、自分の反応を測っている。
「おやすみ」
先にそう言ったのは、セナだった。
「……おやすみ」
声は、ちゃんと低く、落ち着いていたと思う。
少なくとも、自分ではそう思っている。
夜は、静かだった。
――――――
闇に目が慣れてくる。
窓の外で、風が葉を揺らす音。
遠くで、家鳴りがする。
呼吸のリズムが、二つ分。
(……あ)
セナが、動いた。
布団が擦れる小さな音。
次の瞬間、胸元に、確かな重さ。
抱き締められた。
ぎゅう、というほど強くはない。
でも、逃げ道を残さない位置取りで、
腕が、俺の背中に回されている。
一瞬、思考が止まった。
(……受け止められた)
それが、最初に浮かんだ言葉だった。
今夜はいい。
一緒に寝るのは、いい。
それは――
俺を、この距離で、この形で、
受け入れてくれたということだ。
胸の奥で、何かが弾ける。
(これは……)
違う。
違うと言い聞かせようとする理性より先に、
感情が、結論を出してしまう。
(もう、夫婦として、受け止めてくれたんだろ)
言葉はない。
約束もない。
でも、抱き締めるという行為は、
俺にとって、ずっと“特別”だった。
赤子の頃。
転びそうになったとき。
息が詰まったとき。
怖くて泣くことすらできなかった夜。
いつも、最後は、
セナの腕だった。
だから、今も。
(……ああ)
喉の奥が、熱くなる。
息を整えるのに、少し時間がかかった。
「……セナ」
名前を呼びかけそうになって、飲み込む。
今は、呼ばない方がいい。
抱き返したら、終わる。
強くしてしまったら、戻れない。
だから、俺は動かない。
受け止められたまま、
ただ、そこにいる。
そのはずだった。
(……幼馴染、か)
ふと、別の言葉が浮かぶ。
大切な幼馴染。
守ってきた幼馴染。
守られてきた幼馴染。
セナは、きっと、そう思っている。
今夜のこれは、
重い話を聞いたから。
抱き枕として。
安心させるため。
(……距離が、ある)
さっきまで確信だったものが、
少しずつ、形を失っていく。
俺が感じた“受け入れ”と、
セナが与えた“気遣い”。
その間に、
決定的なズレがある。
胸の内側で、
ゆっくりと、静かに、音を立てて何かが崩れる。
(違う……)
否定したい。
でも、否定できない。
セナの呼吸は、穏やかだ。
何も考えていないときの、それ。
つまり――
彼女は、今夜のこの距離に、
特別な意味を載せていない。
俺だけだ。
俺だけが、
ここに“選択”を見て、
“覚悟”を見て、
“未来”を見た。
(……はは)
笑えない。
でも、泣くほどでもない。
これが、現実だ。
だからこそ、
俺は、動かない。
抱き返さない。
顔を埋めない。
何も、求めない。
ただ、セナの腕の中で、
静かに、目を閉じる。
(……いいんだ)
今夜は、これでいい。
受け止められたと思った、その勘違いも。
幼馴染だと、線を引かれたこの距離も。
全部、俺が抱えていく。
壊さないために。
離れないために。
夜は、静かだった。
その静けさが、
俺の内側を、ひどく騒がせていたとしても。




