地獄の上に咲く淫らな劣情
教官が読んでいた恋愛小説。
白いテーブルクロス。
紅茶。
なぜかプリン。
そして、片手に分厚い一冊。
表紙の装丁はやたら荘厳で、
タイトルだけが、妙に生々しい。
――『地獄の上に咲く淫らな劣情』
「……いや」
思わず声が漏れた。
「流石に、これは……」
……
本屋の棚。
目立つ位置に、堂々と鎮座しているその一冊を、半ば警戒しながら手に取る。
ぱら。
……ぱらぱら。
…………
…………あれ。
「……面白いな」
理性が、ひとつ滑った。
文章は重く、静かで、救いがない。
登場人物は、ひたすらに不幸で、愚かで、
それでも――必死に誰かを想っている。
ページをめくる手が、止まらない。
…………。
「……え」
胸が、きゅっと縮む。
「……可哀想……」
救われない。
報われない。
正しい選択をしたはずなのに、すべてが裏目に出る。
「……救済が……」
声が、掠れた。
「救済が、いるよ……」
その瞬間。
低く。
ゆっくり。
腹の奥に、直接落ちてくるような声が、耳元に差し込まれた。
「……この地獄が」
一拍。
「……ずっと、俺を狂わせる……」
――――。
「ひょああーーーー!!!」
反射的に、変な声が出た。
本を落としそうになったその手を、
すっと、別の手が引いた。
強くない。
でも、迷いがない。
「こっち」
気づけば、人気のない棚の奥。
背表紙の影に隠れるような位置。
視界が狭くなった分、
彼の気配が、濃くなる。
「……やめてよ、ここ……」
抗議は、最後まで形にならなかった。
唇が、重なった。
音は、ほとんどしない。
でも、逃げ道はない。
一瞬で、酸素が足りなくなる。
額が触れて、
吐息が混じって、
距離が、壊れる。
「……俺も」
低く、近い。
「……セナに、狂わされてる……」
喉が、鳴った。
言葉が、出ない。
否定も、肯定も、
どちらも選べないまま、ただ息を呑む。
彼の視線は、揺れない。
冗談でも、戯れでもない。
本気だ。
それが、怖くて。
それでも――逃げたいと思えない。
「……夜」
その一言で、
続きを、察してしまった自分がいる。
「それは……地獄を、見た」
囁きは、予告だった。
背筋を、ぞくりと撫でる。
彼は、もう一度だけ、軽く唇を重ねてから、離れた。
「続きは、あとで」
指先が、名残惜しそうに離れる。
棚の隙間から見える通路には、
何も変わらない日常が流れている。
誰も、気づいていない。
今、
地獄の上で、
ひとつの劣情が、静かに咲いたことを。
夜。
それは、確かに――
地獄を見た夜だった。
そして、私は知ってしまった。
この物語が、
本の中だけの話ではないということを。




