嫁
最初に戻ってきたのは、音だった。
規則正しい呼吸。
布が擦れる微かな音。
焚き火が弾ける、遠い気配。
……生きている。
その認識が、遅れて、胸に落ちた。
瞼を開けると、白い天幕。
治癒魔術の残滓が、空気に淡く漂っている。
身体は、重い。
四肢は、鉛みたいだ。
でも。
――動く。
指先が、わずかに動いた。
「……っ」
喉が、焼ける。
声は、出なかった。
視線を巡らせる。
簡易ベッド。
治癒魔術科の陣。
薬草の匂い。
……そうだ。
俺は、やられた。
死角からの一撃。
赤い色。
視界が落ちていく感覚。
そして。
――セナ。
思い出した瞬間、
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
あの顔。
あの声。
泣いていなかった。
でも、必死だった。
「助ける」
「必ず」
叫ぶみたいに、言っていた。
……ああ。
あれは、夢じゃない。
俺は、死にかけて。
そして――
「……愛してる」
自分の声を、思い出す。
戦場で。
息も続かない中で。
それしか、言えなかった。
重い。
ずっと、胸に溜めていた言葉。
そして。
――「受けてあげる」
即答だった。
迷いも、躊躇も、なかった。
「……」
胸が、熱くなる。
呼吸が、少し乱れた。
ああ。
そうだ。
俺は――
嫁だ。
セナの。
頭の中でその言葉が形になった瞬間、
不思議と、恐怖はなかった。
重たい。
責任。
覚悟。
未来。
全部、重い。
でも。
逃げたいとは、思わなかった。
むしろ。
――ようやく、ここに辿り着いた。
長かった。
遠回りも、間違いもした。
汚れて。
壊して。
失いかけて。
それでも。
最後に、
セナは、俺を選んだ。
……違うな。
選んだんじゃない。
「一緒に、生きる」と決めた。
それが、わかった。
「……セナ」
掠れた声が、ようやく出た。
その瞬間。
布が揺れる。
視界の端に、
慌てた足音。
次に、見えたのは――
少しやつれた顔。
目の下に、薄い影。
でも、確かに、そこにいる。
「……ラウル」
声が、震えていた。
立っているのに、
今にも崩れそうで。
「起きた……?」
俺は、力を振り絞って、頷いた。
それだけで、
セナの表情が、くしゃっと歪む。
泣くかと思った。
でも、泣かなかった。
代わりに。
思いきり、俺の胸元に顔を埋めてきた。
「……ばか」
小さな声。
「死ぬかと思った」
抱き締めたい。
でも、腕が、上がらない。
それを察したのか、
セナは、自分から、強く抱き締めてきた。
「……生きてる」
震えが、伝わってくる。
ああ。
これは、
戦後の震えだ。
遅れてくるやつ。
俺は、かろうじて、囁いた。
「……戻ったら」
「ちゃんと、言う」
「何を?」
「……もう一回」
「結婚してくれ、って」
一瞬、間があった。
それから。
「……ばか」
今度は、少しだけ、笑った声。
「それ、プロポーズ二回目だから」
「何回でもする」
本音だった。
逃げない。
誤魔化さない。
もう、代わりは探さない。
セナしか、いない。
「……治ったら」
「抱き枕、復活ね」
その一言で、
胸の奥が、ほどけた。
ああ。
帰る場所は、
もう、失わない。
目を閉じる。
意識が、また、ゆっくり沈んでいく。
今度は、怖くない。
だって。
目を覚ましたら、
そこに、夫がいる。
それだけで、
この世界は、十分だった。




