世界が、止まった
撤退。
その言葉が、頭の中で反響していた。
走れ。
止まるな。
振り返るな。
わかっている。
わかっているのに――
足元の感覚が、急に遠のいた。
地面を蹴る衝撃。
肺に入る冷たい空気。
怒号と爆音。
すべてが、ひとつ遅れて届く。
――あれ?
そう思った瞬間だった。
視界の端。
ありえない角度から、影が滑り込んでくる。
低い。
速い。
獣臭が、鼻を突いた。
ダイアウルフ。
「……っ」
声が、出ない。
距離は、もう――逃げ場がない。
次の瞬間。
世界が、壊れた。
音が、消える。
爆音も、叫びも、風の音も。
全部が、綿に包まれたみたいに遠ざかる。
代わりに見えるのは、細部だけだった。
魔物の牙。
唾液が糸を引いているのが、はっきり見える。
爪が、地面を抉る。
土と石が、ゆっくり宙に舞う。
ああ。
私は、今――
死ぬんだ。
不思議と、怖くなかった。
頭の中に浮かんだのは、
反省とか後悔じゃなくて。
――変成科、ちゃんと守れたかな。
そんなことだった。
次の瞬間。
視界の向こうで、
金色が、弾けるように動いた。
ラウル。
こちらに向かって、走ってくる。
ありえない速度。
地面を蹴るたび、雷光が走る。
ダメ。
来ないで。
ここは、前線じゃない。
あなたが来る場所じゃない。
叫びたかった。
でも、声は出ない。
世界が、遅すぎる。
ラウルの表情が、見えた。
――必死だ。
歯を食いしばって、
目を見開いて、
ただ一直線に。
私だけを見て。
その瞬間。
別の影が、視界に割り込んだ。
横。
死角。
さっきとは、比べものにならない大きさ。
ダイアウルフじゃない。
もっと――重い。
「……っ」
赤。
赤いものが、宙を舞った。
ラウルの体が、僅かに傾く。
時間が、さらに遅くなる。
血が、粒になって飛ぶのが見える。
その一粒一粒が、光を反射している。
ダメ。
ダメダメダメダメダメ。
私のせいだ。
私が、ここにいたから。
私が、死角に入ったから。
思考が、爆発的に加速する。
変成魔術。
陣式。
構造。
再生。
いける。
いけるはず。
私は、変成科だ。
壊すだけじゃない。
作るだけじゃない。
――再生も、できる。
世界が、ほぼ止まった。
その中で、
私は、魔術陣を展開した。
感情も恐怖も、全部捨てて。
理論だけを引きずり出す。
ゴミを処理するみたいに。
不要なものを、排除するみたいに。
次の瞬間。
弾けた。
魔物だった“何か”が、
形を失って四散する。
音が、戻る。
爆音。
悲鳴。
怒号。
私は、走っていた。
いつの間にか、名前を叫びながら。
ラウルが、地面に倒れている。
血。
多すぎる。
「……だめ……」
膝をついて、
必死に手を伸ばす。
触れようとして――止まる。
震える。
でも、止まっていられない。
変成魔術は、再生の魔術も使える。
延命。
維持。
繋ぐ。
「大丈夫……大丈夫……」
自分に言い聞かせるみたいに、呟く。
治癒魔術科を呼ぶ声が、掠れる。
ラウルが、こちらを見た。
焦点が、合っていない。
それでも。
指先が、伸びてくる。
触れたそうに。
でも――途中で、止まった。
こんな時まで。
息が、荒くなる。
胸が、大きく上下する。
「しっかり……!」
「大丈夫……必死で、助ける……」
言葉が、縋りになる。
その時。
掠れた声が、聞こえた。
「……セナ」
一瞬、時間が戻る。
「……愛してる」
世界が、完全に止まった。




