全科撤退
最初に異変に気づいたのは、音だった。
――遠い。
低く、腹の底に響くような唸り声が、重なっている。
「……多くない?」
誰かがそう呟いた瞬間、空気が変わった。
風に乗って届く獣臭。
湿った土と血の混じる匂い。
そして、森の奥から連続して響く、地面を叩く重い足音。
一匹や二匹じゃない。
「報告!」
「想定外の魔物反応、複数!」
「数が……多すぎる!」
怒号が飛び交う。
上級生の騎士科が前線で陣形を組み、盾を構える。
魔術科が即座に詠唱を始め、治癒魔術科が後方で回復導線を確保する。
訓練で何度も見た動き。
でも――今日は、違う。
「ダイアウルフ……?」
「待て、奥にも反応がある!」
「ジャイアントウルフだ!」
ざわり、と全体が揺れた。
本来、この区域に同時に存在するはずのない魔物。
しかも群れ。
「縄張り争いか……」
「いや、完全に流れ込んできてる!」
判断が、一拍遅れただけで致命傷になる。
「前線、押し返せ!」
「後方! 変成科! 退路確保を優先!」
その指示で、理解した。
――これはもう、訓練じゃない。
変成科は即座に動いた。
拠点維持を捨て、撤退専用の構造へ切り替える。
地面を固める。
足場を伸ばす。
倒木を処理し、退路を一本に絞る。
「急げ!」
「遅れるな!」
後方で悲鳴が上がる。
魔物が、流れ込んできている。
騎士科の先輩たちが、体を張って受け止める。
剣が火花を散らし、盾が軋む。
魔術が放たれ、爆音が森を裂く。
それでも――数が減らない。
「……多すぎる!」
誰かの声が裏返った。
「撤退!」
「全科、撤退優先!」
命令が、はっきりと下った。
逃げる。
それは敗北じゃない。
生き残るための、唯一の選択だ。
隊列が組み直される。
負傷者を中央へ。
治癒魔術科が走り回り、最低限の延命を施す。
変成科は、後ろを固めながら下がる。
その時。
前線の、さらに奥。
――見えた。
一線を張る、金色。
雷光のような魔術が走り、
巨大な影が吹き飛ばされる。
「あ……」
名前は、出なかった。
ただ、誰がそこにいるのかは、わかった。
ラウルは、前線にいた。
剣と魔術を同時に操り、
魔物の群れを切り裂き、焼き、押し返している。
無茶だ。
一人で抑えられる数じゃない。
でも、彼が立っているからこそ、
後方は下がれている。
「前線、持ってる……」
「誰だ、あれ……」
上級生ですら、息を呑む。
魔物が、さらに押し寄せる。
森が、鳴く。
「もう限界だ!」
「引くぞ! 全員、走れ!」
号令が落ちる。
変成科は、最後まで構造を維持し、
全科を通し切ることだけに集中した。
後ろを見る余裕はない。
立ち止まれば、喰われる。
ただ、必死に――撤退する。
怒号。
爆音。
悲鳴。
世界が、戦場に塗り潰されていく。
その中で、最後に見えたのは。
まだ、前線で戦っている、金色の背中だった。
――お願いだから。
言葉にならない願いを飲み込んで、
全科は、全力で撤退を続けた。
この時点では、まだ。
誰も知らなかった。
この撤退が、
“本当の地獄”の、入口に過ぎないことを。




