抱きしめたい
呼吸が、落ちた。
腕の中で、完全に眠っている。
まつ毛が伏せられて、胸が静かに上下している。
――ああ。
この距離。
喉の奥が、ひりついた。
抱きしめたい。
今すぐ、強く。
骨が折れない程度に、でも逃げ場がなくなるくらい。
……できない。
できるはずがない。
さっきの言葉が、まだ耳に残っている。
「布団、あっためて」
拒絶じゃない。
でも、許可でもない。
そして最後の、
「……好きにして」
眠気に溶けた声。
無防備で、信頼しきった響き。
――それが、いちばん残酷だ。
俺は、布団の端を握りしめた。
指が、白くなる。
抱き枕みたいに、腕を回していた夜があった。
当たり前のように、体温を分け合って、
眠れない悪夢を、彼女の呼吸で消していた。
あれは――
許されていた。
今は違う。
線を引かれたわけじゃない。
でも、境界が、確かにある。
触れたら壊れる。
触れたら、戻れない。
セナの髪が、頬に触れる。
微かに香る、いつもの匂い。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
……知っている。
俺は、もう汚れている。
他人の体温。
他人の声。
代わりにした、浅い熱。
全部、彼女に向けるはずだったものを、
自分で踏みにじった。
それでも。
それでも、だ。
眠っている横顔を見ていると、
理屈が全部、溶けていく。
抱きしめたい。
額に、唇を落としたい。
泣きながら、名前を呼びたい。
「セナ」
声に出さない。
出せば、きっと縋ってしまう。
彼女は、今、戦っている。
自分の気持ちと。
学園と。
未来と。
その中に、俺が割り込む資格はない。
わかっている。
……わかっているのに。
胸の奥で、どうしようもなく叫ぶものがある。
必要なくても、そばにいたい。
選ばれなくても、離れたくない。
それが、
俺の本音だ。
ゆっくり、ゆっくりと、
彼女に触れない距離で、布団を整える。
冷えないように。
悪夢を見ないように。
――それだけでいい。
それだけで、いいはずだ。
唇を噛みしめて、天井を見る。
今夜は、眠れない。
それでも、
この距離を守れた自分を、
少しだけ、誇ってやろうと思った。
……抱きしめたい。
その衝動を、
ただ、胸の奥で殺しながら。




