ふたりの夜
宿に着いたのは、すっかり日が落ちてからだった。
長旅で身体は疲れているはずなのに、頭だけが冴えている。
馬車を降りた瞬間、夜の空気が肌に触れて、ようやく「移動してきた」という実感が追いついた。
受付を済ませて、鍵を受け取る。
――部屋は、ひとつ。
それを告げられた時、どちらも何も言わなかった。
驚きもしないし、顔にも出ない。
ただ、事実として受け取っただけだ。
階段を上がる。
廊下を進む。
足音が、やけに響く。
部屋に入ると、簡素な造りだった。
木の床。
小さな机。
そして――ベッドが、ひとつ。
「……」
沈黙が落ちる。
荷物を置いて、セナは一度、息を整えた。
考えすぎないように。
でも、考えないこともできなくて。
「どうする?」
振り返らずに、そう聞いた。
「別の部屋、いる?」
声は、なるべく平坦に。
拒絶でも、誘いでもないように。
少し、間があった。
その間に、いろんな記憶が脳裏をかすめる。
一緒に眠っていた夜。
何も言わずに抱き寄せられた重さ。
安心して、呼吸を預けていた感覚。
――でも、今は違う。
「……いい」
返ってきた声は、低くて静かだった。
「ここでいい」
理由は、言わない。
求めてもいない。
ただ、事実だけを置く声音。
セナは、ゆっくり振り向いた。
そこに立つ幼馴染は、近いようで、遠かった。
視線は合う。
でも、踏み込んでこない。
「……わかった」
それだけ言って、セナは荷物を整理し始めた。
着替えを取り出して、机に置く。
いつもなら、自然に手伝いが入る場面。
でも、今日は何も起きない。
背中に視線を感じる。
触れられない距離からの、確かな気配。
「先に、シャワー使う?」
「……どうぞ」
譲る声。
それもまた、いつもと違う。
シャワーを浴びながら、セナは考えないようにしていた。
今日一日。
送り出しの言葉。
母の声。
父の忠告。
――我儘になれ。
頭の中で、何度も反芻する。
部屋に戻ると、ラウルは椅子に腰掛けていた。
ベッドには、まだ触れていない。
セナは、タオルで髪を拭きながら言った。
「次、どうぞ」
「……ありがとう」
シャワー室の扉が閉まる。
ひとりになると、急に部屋が広く感じた。
ベッドの存在が、妙に主張してくる。
やがて、水音が止む。
戻ってきた幼馴染は、いつもより距離を取って立ったまま、
小さく息を吐いた。
「……疲れた?」
「うん」
嘘じゃない。
「もう、寝よっか」
自然な提案のつもりだった。
逃げでも、拒否でもない。
セナはベッドの端に腰を下ろし、
壁側を指さした。
「私、こっち使うから」
真ん中に、見えない線を引く。
ラウルは、少しだけ視線を落としてから、反対側に腰を下ろした。
横になる。
背中と背中の間に、確かな距離。
触れない。
触れられない。
天井を見つめながら、セナは思った。
――これが、今の距離。
嫌じゃない。
でも、楽でもない。
「……おやすみ」
先に言ったのは、セナだった。
「……おやすみ」
返事は、すぐ。
それ以上、何もない。
灯りを消す。
暗闇の中で、互いの呼吸だけが聞こえる。
近いのに、遠い。
同じ部屋なのに、別の場所にいるみたいだ。
セナは、目を閉じた。
今夜は、
抱き寄せられない。
それが、正しい。
そう、自分に言い聞かせながら。
――でも。
眠りに落ちる直前、
背中の向こうから、
かすかに震える気配を感じたことには、
気づかないふりをした。




