部屋の前で
赤子部屋の前で、足が止まった。
扉は閉まっている。
内側から、微かな魔力の流れが伝わってくる。
――展開中。
変成魔術の、あの独特の脈。
幾重にも重ねられた術式が、呼吸みたいに整っている。
セナが、ひとりでいる。
それだけは、わかった。
ノックをしようとして、
拳が、途中で止まった。
……違う。
今の俺に、
叩く資格はない。
扉越しに、音がした。
紙が擦れる音。
指先で、何かを描き直す、一定のリズム。
集中している時の、癖だ。
頭の中に、勝手に浮かぶ。
机に向かう背中。
銀髪を後ろで束ねて、眉を寄せる横顔。
口元だけが、真剣に引き結ばれる。
――触れたい。
反射的に、そう思ってしまう。
肩に、手を置いて。
「無理するな」って、言って。
いつもの距離に、戻って。
……戻れない。
一歩、近づく。
床が、かすかに軋む。
内側の魔力が、揺れた。
……気づいた?
喉が、鳴る。
名前を呼べば、
振り向くかもしれない。
でも。
呼んだところで、
何が変わる?
俺は、
選ばなかった。
守らなかった。
正直であることを、言い訳にした。
その結果が、
今の距離だ。
赤子部屋は、完成に近い。
壁の向こうから伝わる、安定した構造。
揺れない、隙のない気配。
安全。
安心。
徹底的な、危機回避。
――赤子のため、だ。
でも。
それを作っているのは、
誰よりも、自分を後回しにする女だ。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
俺は、
この部屋を、
外から見ている。
一度も、
中に入っていない。
いや、違う。
入れない。
近づくほど、
触れられないことを、突きつけられる。
夜。
抱き枕は、ない。
腕を回しても、
そこに、温度は戻らない。
目も、合わない。
わざとじゃない。
拒絶でもない。
――もっと、残酷なやつだ。
“必要じゃなくなった”距離。
足が、重い。
帰れ、と言われたわけじゃない。
出て行け、とも言われていない。
それでも。
俺は、
この家の“内側”にいない。
「……」
名前が、喉まで上がって、
結局、消えた。
扉の向こうで、
魔術が、ひとつ、完成する音がした。
澄んだ、収束の気配。
成功だ。
……おめでとう。
心の中で、そう言った。
声には、出せない。
出せば、
また、何かを壊す。
俺は、後ずさる。
赤子部屋から、
一歩。
二歩。
廊下の空気が、冷たい。
気づいた時には、
拳を、強く握りしめていた。
何も持っていないくせに、
失う恐怖だけが、こんなにも鮮明だ。
――選ばれたい。
今さら。
必要とされたい。
遅すぎる。
赤子部屋の前で立ち尽くす俺は、
ただの外側だ。
守ることも、
触れることも、
声をかけることもできない。
それでも。
扉の向こうに、
セナがいる限り。
俺は、
ここを離れられなかった。
動けないまま、
夜が、静かに深くなっていく。
ラウル・アインハルト




