きちゃった。
玄関先に立つその人物は、背筋を伸ばしていた。
淡い茶色の髪。
肩に触れるくらいの長さで、丁寧に整えられている。
服装も派手ではなく、落ち着いた色合い。
学園で見かける時と同じ――
けれど、今日は妙に“きちんとしすぎている”。
「初めまして。
ラウルと交際中の、リーネ・ノエルです」
礼儀正しい一礼。
完璧だった。
タイミングも、言葉選びも、距離感も。
だからこそ。
その場の空気が、一瞬で凍った。
隣にいたラウルが、何も言わない。
息を吸う気配も、言葉を探す気配もない。
ただ、視線だけが――わずかに、揺れた。
完全な不意打ち。
セナは、その沈黙を、嫌というほど知っている。
ラウルが、予想外を叩きつけられた時に見せる、あの間。
両親は、ほんの一拍遅れて状況を理解したらしい。
母の視線が、セナからラウルへ。
父は、ラウルの硬直した肩を見て、すべてを察したようだった。
「……立ち話もなんですし」
父が、穏やかに切り出す。
「中へどうぞ。応接室でお話しましょう」
逃げ道を作る声。
同時に、逃がさない声でもあった。
リーネは、にこりと微笑んで頷く。
「ありがとうございます」
その笑顔に、遠慮はない。
自分が“招かれる立場”だと、疑っていない。
応接室へ向かう間。
廊下を歩く音が、やけに大きく響く。
セナは、無意識にラウルの横顔を盗み見た。
――何も変わらない。
淡い金色の髪。
澄んだ翠の瞳。
表情は、完全に読めない。
けれど。
セナには、わかってしまう。
これは、計算ではない。
用意された場でもない。
ただ――
来てしまった、という顔だ。
応接室に通され、
全員が腰を下ろす。
母が紅茶を用意し、
父が場を整える。
その間にも、沈黙は続いた。
リーネは、落ち着いている。
むしろ、ここに来ることを“覚悟してきた”空気があった。
視線が、ちらりとセナに向く。
初めて、はっきりと目が合った。
学園では、何度か見かけた。
廊下。
食堂。
中庭。
言葉を交わしたことは、一度もない。
けれど――
何度も、見てしまっている。
ラウルとの口付け。
距離の近さ。
寮への帰り道で、絡み合う影。
思い出しただけで、胸の奥がきしむ。
非常に、気まずい。
耐えきれなくなったのは、セナだった。
「……私、席外すね」
全員の視線が、一斉にこちらを向く。
「赤子部屋の続き、やりたいし」
理由は、ちゃんとしている。
実際、やることは山ほどある。
それでも――
逃げだと、わかる。
母が、少しだけ心配そうな顔をした。
「セナ……」
「大丈夫」
笑おうとして、うまくいかなかった。
「ここ、任せるね」
立ち上がり、応接室を出る。
背中に、視線が刺さる。
ラウルのものか、リーネのものか、わからない。
玄関を抜けて、新居へ向かう。
赤子部屋の扉を開けた瞬間、
さっきまでの空気が、嘘みたいに静かだった。
まだ乾ききっていない木の匂い。
新しい壁材の感触。
――私が、守ろうとした場所。
床に腰を下ろして、深く息を吐く。
……きちゃった。
頭の中で、その言葉が、ぐるぐる回る。
ラウルの彼女。
そう名乗った、リーネ・ノエル。
礼儀正しくて。
堂々としていて。
「選ばれた女」だと、疑っていない顔。
当然だ。
だって――
あの人は、ラウルに選ばれた。
少なくとも、そう見える行動を、何度も見せられてきた。
セナは、両手で顔を覆った。
胸の奥が、ざわざわする。
整理しきれない感情が、重なって、息が浅くなる。
戻ってきたと思っていた距離。
安心していた、夜。
抱き枕みたいな腕。
全部、仮初めだったのかもしれない。
それでも。
――まだ、決定的な言葉は、聞いていない。
その事実だけが、
かろうじて、セナをここに座らせていた。
応接室の方から、かすかに声が聞こえる。
誰の声か、聞き分ける勇気はなかった。
平穏は、確かに終わった。
でも。
本当に壊れるのは――
きっと、これからだ。




