話し掛けないでくれるかな?
「――あっ!」
背後から声を掛けられて、足を止めた。
振り向くと、
さっき通りですれ違った青年が、気安い笑顔でこちらを見ている。
「あ、さっき手を振ってくれた子じゃん」
……あ。
確かに振った。
景色が楽しくて、テンションが上がって、つい。
「こんにちは」
いつもの癖で、にこっと笑う。
「成人したて?」
私は胸を張る。
えっへん。
どうだ、この成長。
青年は、その反応を見て、ますます調子に乗ったように笑った。
「じゃあ、あれはアピールってことか!」
……?
「デート、するんだろ?」
なんですと?
意味を理解するより先に、
隣の空気が――
すっと、冷えた。
一瞬で。
本当に、一瞬で。
さっきまで柔らかかった温度が、
音もなく下がる。
ラウルだ。
呼吸が変わったのが、わかった。
深く、低く、喉の奥で息を整える音。
「――俺の夫に、
話し掛けないでくれるかな?」
低い。
囁きに近いのに、
なぜか、通りの雑音よりはっきり耳に届く声。
感情を削ぎ落とした、
平坦で、逃げ場のない低音。
「夫!?」
思わず、声が裏返る。
「え!?
男!?!?」
青年の声も、被さった。
……シーン。
周囲の音が、
一拍、遅れた気がした。
ラウルは、
青年を見ていない。
視線は、
最初から最後まで、
私だけに向いている。
次の瞬間。
腕を、掴まれた。
強くない。
でも、迷いがない。
「行くぞ」
低く、短く。
その一言で、身体が動く。
歩幅が、早い。
「ちょ、ラウル……」
返事はない。
……怒ってる。
声を荒げない分、
余計にわかる。
進む方向は、家の方。
……の、はずが。
人通りが減っていく。
建物の影が、濃くなる。
石畳が、細くなる。
……路地。
裏道。
そして。
――ドン。
背中が、壁に当たった。
視界が、
ラウルで埋まる。
近い。
息遣いが、
はっきりわかる距離。
「ダメだよ?」
声が、さらに低くなる。
喉の奥で、
ゆっくり鳴る音。
「……わかるよね?」
一呼吸。
その「間」が、
心臓にくる。
翠の瞳が、
深く、深く、覗き込んでくる。
逃げ場がない。
吐息が、
頬に触れる。
耳元で囁かれているわけじゃないのに、
声が、直接、内側に落ちてくる感じ。
「こ、この状況が……
眩しいッ!!」
耐えきれず、
意味不明な言葉が飛び出した。
……。
ラウルは、
一度だけ目を伏せた。
「……はぁ」
低く、長いため息。
怒りを、
ゆっくり押し込めるみたいに。
「知らない人に、
むやみやたらについて行っちゃダメ」
声は落ち着いている。
でも、芯がある。
「さらわれちゃうよ?」
低音で言われると、
冗談に聞こえない。
……ここ、異世界。
治安、悪い。
私は、
こく。
こくこく。
こくこくこく。
全力で、頷いた。
だって。
ラウルの瞳が、
本気で、恐かった。
しばらくして、
距離が、戻る。
腕も、離れる。
「……ごめん」
小さく、
低く。
その声だけは、
さっきより少し柔らかい。
胸の奥が、
きゅっと鳴った。
それから。
私たちは、
帰り道に、お菓子を買った。
甘い焼き菓子。
香ばしいナッツ。
色とりどりの砂糖菓子。
「……ついでに、もう少し」
「あ、このお菓子も」
袋が、増える。
ラウルが一瞬だけ、こちらを見る。
低い声で、
「……重くないか」
答える前に、
私の手から袋がすっと消えた。
当たり前みたいに。
全部、ラウルが持っている。
「え、いいよ?」
そう言うより先に、
歩き出していた。
さっきまで感じていた
あの怖さは、
もうない。
同じ低い声なのに、
今は、胸の奥がじんわり温かい。
ずっと一緒だった幼馴染の優しさ。
さっきの緊張が、
ゆっくり、甘さに溶けていった。




