満たされた夫の香り
セナが、眠った。
呼吸が整い、胸の上下がゆっくりになる。
それを確認してから、ようやく――指が、動いた。
震えている。
自分でも、笑えるくらい。
戦闘魔術科の首位が、
血の匂いにも、痛みにも慣れ切ったこの身体が、
ただ、眠っている彼女に触れるだけで、震える。
起こさないように。
それだけを、何度も頭の中で繰り返す。
指先が、そっと布に沈む。
布越しに伝わる、体温。
生きている証。
――セナだ。
名前を呼ばなくても、わかる。
他と、決定的に違う。
髪の端に、顔を埋める。
香りを、確かめる。
……薄い。
洗われた匂い。
余計なもののない、セナそのもの。
胸の奥で、何かが軋んだ。
あの夜。
他人の声。
他人の体温。
どうでもいい感触。
身体は、覚えてしまった。
欲というものを。
満たすという行為を。
でも。
――違った。
全部、違った。
今、こうしてセナの隣にいるだけで、
あの時の感覚が、薄れていく。
上書きされていく。
触れていないのに。
抱いていないのに。
香りだけで。
距離だけで。
身体が、勝手に理解していく。
(……戻りたがってる)
セナ以外で知った熱が、
セナで、消されていく。
それが、恐ろしくて、心地いい。
指先が、もう一度、布に沈む。
ほんの少しだけ、近づく。
触れない。
越えない。
でも、確かめる。
ここにいる。
俺の隣にいる。
――俺の、だ。
そう言葉にする代わりに、
深く、息を吸った。
セナの香りが、肺に満ちる。
満たされる。
完全じゃない。
足りない。
それでも。
今夜は、これでいい。
奪わない。
壊さない。
まだ。
眠る彼女の背中を、見つめたまま、
ラウルは、目を閉じた。
満たされた夫の香りだけを、
胸いっぱいに抱いたまま。




