こぼれる涙
見なければよかった。
それでも、目は勝手に追っていた。
足音を殺して、距離を保って、影に溶けて。
“尾行”なんて言葉を、俺はまだ使っていない。
ただ、離れられなかっただけだ。
夕暮れの街は、柔らかい。
屋台の灯り、甘い匂い、笑い声。
その中心に――セナがいた。
レックの隣で。
並んで歩く背中。
自然すぎる距離。
会話の間に、間がない。
呼吸が、同じだ。
胸の奥で、何かが軋む。
(……違う)
俺の中で、否定が先に立った。
あれは、ただの外出だ。
仲間だ。相棒だ。
そう、そうだろ。
――そう思っていた、はずだった。
丘の上。
街がオレンジに沈む頃。
風が吹いて、セナの髪が揺れた。
レックが呼ぶ。
名前を。
俺の耳が、焼ける。
一歩、踏み出しかけて、止まる。
見ている。
見てしまっている。
レックが、セナの手を取った。
ゆっくり。
逃げ道を残さない距離で。
セナが見上げる。
目が合う。
――あの目だ。
俺だけに向けていたはずの、あの柔らかい目。
唇が、近づく。
時間が、伸びる。
(やめろ)
声は出ない。
体も、動かない。
触れた。
一瞬。
軽い。
でも――確かに、唇だ。
俺が、眠っている間に落としていた口付けじゃない。
夢と現実の境で、こぼれていた、あれじゃない。
セナが起きている。
意識が、ある。
それで、受け入れた。
世界が、音を失った。
胸の奥が、空洞になる。
血が、引く。
視界が、白む。
(……俺は)
言葉が、出てこない。
俺は、嫁だろ。
そう言った。
そう言わせた。
そう、信じていた。
じゃあ、今見たこれは何だ。
誰だ、あいつは。
いつからだ。
いつ、奪われた。
足が、震えた。
前に出たら、壊れる。
出なくても、壊れる。
だから、戻るしかなかった。
寮の前には、行かない。
行けない。
明日は、魔術科の授業がある。
戦闘魔術科の日常が、待っている。
――“待っている”。
言葉が、滑稽だ。
自分の部屋。
扉を閉める。
鍵を掛ける。
静かだ。
あまりに、静か。
ベッドに腰を下ろして、
セナと交換したシャツを、掴む。
布が、指に絡む。
あの匂い。
甘くて、落ち着く――はずだった。
抱き締める。
胸に押し付ける。
息を吸う。
(……違う)
足りない。
全然、足りない。
あの口付けの後では。
喉が、詰まる。
息が、乱れる。
「……セナ」
声が、掠れた。
握る力が、強くなる。
指が、震える。
抑えきれない。
ぽた、と。
雫が、布に落ちた。
……涙だ。
自分でも、驚いた。
泣くなんて、思っていなかった。
もう一滴。
また一滴。
視界が、滲む。
(……捨てないで)
声にならない願いが、胸を掻きむしる。
俺は、何を間違えた。
何が、足りなかった。
いつから、負けていた。
答えは、ない。
あるのは、
シャツに残る匂いと、
胸を締め付ける現実だけだ。
明日から、日常に戻る。
魔術科の訓練。
血と魔力と、破壊。
でも――
今夜だけは、
この腕の中に、
セナがいない。
それが、
こんなにも、痛いなんて。
ラウルは、シャツを抱き締めたまま、
声を殺して、泣いた。




